第一章 6. 意外なシミュレーション結果に動揺してはいけません

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第一章 6. 意外なシミュレーション結果に動揺してはいけません

 厚く空にたれこめていた雲の隙間から細く放射状に日の光が広がっている。降りつづけていた雨が、ほんの数分前にふと息をひそめた。爽やかな風が吹き抜け、路面に浮かんだ水面を揺らしている。  高梨は迷いのない足取りで進んでいく。大学の最寄り駅を通りぬけ、反対側にある小さな商店街や塾、コンビニが放射線状に広がるエリアを横目に歩き続ける。ひっそりと軒を連ねるアパートや一軒家が顔を出し始めた。六年間もこの街にいるはずなのに、ほとんど来たことのない場所だ。 「着きましたよ。ここです」  小さな公園の隣につながるように背の高い木に囲まれた店が現れた。ドアも店の前面もガラス張りで、明るい店内の様子がよく見えた。それほど混んでなさそうだ。 「どうぞ」高梨がドアを押さえている。 「入らないんですか?」 「お? おう……」  俺が入るとすぐに黒いエプロンをつけた女性店員がにこやかに出迎えてきた。後ろから落ち着いた声が届く。 「十二時から予約していた高梨です」  茫然としている俺をよそに、高梨は奥の席へと進んでいった。 「高梨」  ぎこちなさで無意識に小声になった。窓の外を眺めていた視線が俺のほうへと戻される。 「なんですか?」 「おまえいつの間に予約なんかしてたんだよ」 「この店は平日でもたまに混むときがあるんです。待ち合わせをして、少し歩かせた上に店が満席だったらどうします?」  きっと連れてきた相手はげんなりすることだろう。もしデートだとしたら、最初の印象から最悪だ。  先ほど俺たちを案内した店員がもう一度テーブルに戻ってきた。ランチメニューについて簡単に説明をして、水を入れたガラスのボトルとグラスを置いていった。  周囲を見渡してみる。店内はほんのり新しい建物の匂いが残っていた。焦げ茶色の木の柱がはしる白い漆喰の壁が、公園側に設けられた大きな窓から入る光に淡く照らされている。観葉植物がいたるところに置かれていて、店内まで公園の一部のように見えた。柱と似た色のテーブルがゆったりと広い間隔で並んでいる。平日の昼間だから客層は奥様方だけだと思っていたら、まだ学部生くらいの女子学生がおしゃべりをしていたり、カウンター席で男子学生がノートパソコンを開いて作業をしていた。男だけで来ても気にならないシックな雰囲気の店だ。 「ちょっとは落ち着いたらどうですか」  高梨は開いたメニューをテーブルに置いた。その顔には苦笑いが浮かんでいる。 「いやだってさ……こんな洒落た店とか普段来ないから居心地悪いんだよ」  ふと自分の身体を見下ろした。しまった、いつもと同じ服を着てきている。シャツの裾のあたりに焦げた跡があった。はんだ付けのときに当たったんだった。ほとんど寮と大学の往復しかしないし、バイト先ではすぐに着替えるから、今まで服に気を遣う必要がなかった。新しい服は合コン前に一着買っただけだし。 「しかも穴開いてる……」 「別に俺は気にしないですよ」 「高梨――」 「まあ女性は気にするかもしれませんが」 「おい!」  喉を鳴らすように笑っている。こいつ、やっぱり絶対に俺のこと先輩だと思っていない。それでも今のような気安い関係も案外気に入っていた。 「でも北原さんと会う前に服買わなきゃなあ」 「いつもどういう風に買っているんですか?」 「どういう風って……選ぶのも面倒だからマネキンが着ているのをそのまま買ってるけど――え、まずいかな」 「いえ、まあ……そのことはまた今度考えましょう。それより何を食べるか決めましたか? ランチならカフェが無難だろうと思ってここを選んだんです。セットメニューも豊富だし、デザートも選べますよ。迅さん甘い物好きでしょう」  手渡されたメニューを開いてみる。それぞれどんな品なのか、手書き風のイラストでわかりやすく描かれている。これは女子が気に入りそうだ。ランチメニューで平均千円ちょっと……デザートをつけると二百円以上値段が上がる。もちろんいつもの昼食と比べれば何倍も高い。でもこれは来たるべきデートのための必要経費だ。 「北原さんとは――」 「ん? ああ、一応連絡を取れてるよ」注文を終えてようやくひとごこちついた気分で椅子に深く座り直した。 「でも北原さんは三年だろ? まだ授業も多いし、バイトもやってるらしいんだよね。俺のバイトのシフトとゼミのスケジュールと全然合わなくてさ。なかなか日程が決まらないんだ」  返事が来るのも三日に一回くらい。話が遅々として進まないが、忙しい様子を聞いていると仕方ないと思うしかないのだろう。  俺の話を聞きながら高梨はボトルを手に取った。ふたつのグラスに水を注ぎ、ひとつを俺の目の前に静かに置く。 「おまえ――そういうところか!」 「はい?」 「さっきのドアといい、水といい……やっぱりそういう気遣いが必要ってことなんだな……」  二度、三度と大きな目がまばたきをした。噴き出すと口元を拳で抑え、肩をゆすって笑っている。 「なんだよ、そんなに笑うことか?」 「いえ……なんというか、迅さんらしいと思って。見た目と違って男くさいというか、昔気質というか」  俺の不満顔に気づいたのだろう、高梨は軽く咳払いをして小さく首を振った。 「こういうのは無理してやるものじゃないですよ。相手のことを思いやっていれば自然とできることですから」  視線を落とした高梨が、蕾がほころぶように小さく口元を緩める。  どきりと心臓が跳ねた。  きっと、見てはいけないものを見てしまった気がしたからだ。 「それって、どういう――」 「お待たせいたしましたー」  テーブルの上に皿が次々と乗せられる。高梨はローストビーフ、俺はカルボナーラだ。それぞれにサラダやスープ、ドリンクもついて、男が食べてもそれなりに満足するボリュームだろう。 「食べましょうか。ああそうだ、食べている間もなにか会話してみてください」 「ええっ?」 「北原さんって、大人しい子でしたよね。毎回会話を切りだしてくれるとも思えないし、ある程度は迅さんのほうから話しかけてあげないと気まずくなりますよ」  いちいち高梨の言うことはもっともだ。  フォークを手に持ったまま、頭をフル回転させる。まずは会話のきっかけを探すことだ。  でも何から話せばいい? 今食べてる料理のこと? 今日の天気? そんなので会話が続くのか?  かちり、とナイフとフォークが皿に置かれる。口元をぬぐい、憐むような目で俺を見た。 「どうして急に黙ってしまうんですか。いつもそんなに無口じゃないでしょう?」 「だってさ……話さないとって思うと余計に何を話していいのかわからなくなるんだよ」  あまりの情けなさにため息がこぼれる。 「どうしても困ったときのために、ある程度は会話のカードを頭の中に用意しておくんです。誰でも答えられるような質問でいいんですよ。それで会話を続けるときは、『同調』するのが一番手っ取り早い。無理に話を合わせる必要はないですが、共感することで相手から話を引き出しやすい。心理学ではそのまま『同調効果』というそうですよ」 「なんかそれマニュアルで見たな……!」 「マニュアル?」 「あっいや、なんでもない。じゃあさ、高梨が何か会話を始めてみろよ」 「俺が、ですか?」 「そう。まずは手本を見せてくれよ」  形の良い眉がひそめられた。しばらくして、おもむろに口を開く。 「ロボットの手の指の数って、何本必要だと思います?」 「はあ? おまえ、女子とのデートでそんな会話するのかよ」 「いいえ? だって今会話しているのは女子じゃなくて迅さんですから。相手が興味をもちそうな話題を提供しただけです」 「なんだよそれ、ずるいぞ!」  そうは言ったものの、思いのほかこの話題で盛り上がった。高梨は指三本、俺は指五本が必要だと主張した。最小限の効率か、多機能性か。最近の研究ではどちらのほうが多いのか。議論を始めたら、ついうっかり没頭してしまう。高梨は俺の主張を否定せず、それならもっとこうしたら面白いんじゃないかとアイデアを膨らませる。次の研究のネタになりそうだと言ったら、論文は自分も共著に入れるようにと釘を刺された。    高梨との会話は気が楽だ。趣味の話も通じる。こんな風ならいくらでも話せるのに。  ふと、高梨の皿の真っ赤なトマトが目に入った。葉物のサラダは綺麗に平らげているのに、カットされたトマトだけが皿の脇によけられている。 「あれっ高梨、もしかしてトマト嫌いなの?」 「……そうですけど」高梨が珍しく口ごもった。 「メニューにはミニトマトの絵が描かれていたから大丈夫だと思ったんですが、大きいほうは食感が苦手で――なんですか、その顔は」 「いやあ、なんか意外でさ。おまえは完全無欠って感じがするのに、結構子どもっぽいところあるんだなって」  思わずにやけてしまう。高梨がますます不機嫌になっていくのに気づいて慌てて付け加えた。 「俺も子どもの頃、トマト苦手だったんだよ! その中のドロドロが気持ち悪くて。それに青臭い感じがして生じゃ全然食べられなかったんだ」  「へえ……それで、どうやって克服したんですか?」 「うーん、母親が食べ物を絶対に残すな! って厳しかったから、最初は無理矢理食べてたかな。でも焼けばまだマシになるってわかってきて、チーズをのせて焼いたのを食べたら意外とイケるぞってなって……気づいたら生でも食べられるようになってたよ」 「参考になるような、ならないような……」  相変わらず恨めしい視線をトマトに向けている。ふいにいたずら心が湧き上がった。 「食わないんなら俺がもらってやるよ」  手を伸ばし、フォークにひと切れ突き刺した。呆気にとられている高梨を前に見せつけるように口に入れる。甘酸っぱい香りが舌の上に広がった。ドレッシングの中に入っているハーブが青臭さをうまく消している。 「お、結構甘いな。これならおまえもいけるんじゃないか」  高梨が深々とため息を吐いた。 「迅さんって……本当にそういうところありますよね」  無表情とも、睨んでいるとも取れる視線が俺を捉えた。感情が読み取れない。怒っているわけではない、と思う。  あまりにじっと見つめられて、急に気まずくなった。目を逸らそうとしたとき、高梨が先に視線を下ろした。  そのまま何事もなかったように残りのトマトを取り、口に運ぶ。数回咀嚼をしたあとに喉が大きく動いた。眉根を寄せたまま、アイスティーで流し込んでいる。 「おまえ、さては負けず嫌いだな?」  意地っ張りの子どもみたいで、なんだか可笑しかった。今日は高梨の意外なところばかりを見ているような気がする。 「……負けず嫌いですよ。負けたくないんです、誰にも」 「ははあ、だから飛び級なんてしようって思ったんだな。よくやるよ、本当に」 「そうしないと追いつけないですから」  口を開こうとしたが、ごちそうさまでした、と高梨が手を合わせた。よく見ると、俺のカルボナーラはすっかり冷めて、ソースが固まってしまっていた。 「食事に来ているんですから、ある程度は沈黙が続いても気にしなくていいですよ。今はもうとりあえず食べちゃってください。それに『同調』、できていたじゃないですか。当日も今みたいに話せば問題ないですよ、きっと」  高梨が視線を窓の外に移した。つられて俺も外を眺める。  揺れるグラスの中で氷がカラカラと音を立てる。空は雨など忘れたように、青く遠くまで晴れ渡っている。
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