第一章 7. 研究のアイデアはいくらあっても足りないことはありません

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第一章 7. 研究のアイデアはいくらあっても足りないことはありません

「高梨、見てみろよ。こんなのもあるぞ!」 「……却下」 「なんでだよ」  「いいから、見せてください」  ゆったりと組んでいた脚をほどいて立ち上がり、俺のマウスを奪った。触れそうになった手を慌てて引っ込める。高梨の左腕は俺の椅子の背もたれに回され、俺の半身はすっぽりと覆われてしまっていた。 「山崎重工のロボット工場見学ね……一般女子がデートで行きたがると考えるその思考回路を覗いてみたいもんですよ」    くすりと笑う声が、身体が、近い。  近すぎる。  男しかいない高校時代は、男同士で肩を抱き合ったり、膝の上に座ったり、ふざけてもっとキワドイじゃれあいをしたりというのはよくあることだった。純粋に友情の表現方法だったと思っているし、聞けば一歩や武の男子校でもそういうもんだったと言っていた。  それが大学に入ると、途端に「近づく」「触れる」ということがまるで禁忌のような空気が漂い始めた。特に男子校出身者ほどキャンパス内に溢れる女子の目を過敏に意識しているところがあった。そこにもれなく俺も入っていたわけだ。  そうして歳を重ねるごとにパーソナルスペースはますます広くなり、よほど親しくなければ肩を叩くことすらなくなっていた。  そっと視線を上げた先に、シャープな顎のラインが見える。  高梨はたしか共学出身だったはずだ。だからこんなにも距離が近いのか?  近いからって、なにか問題があるわけじゃない。ただなぜかちょっと落ち着かない気分になる……それだけだ。  すべては顔が良すぎるせいだ、と思うことにしている。特に不意打ちのように出くわす柔らかな笑みは、いまだに慣れずドキリとしてしまう。  女子はきっと、こういうギャップ萌えってやつが好きなんだろうな。クールに見えて面倒見がいいし。実はトマトが苦手なんてところまで知ったら、かえって可愛いと騒ぎ出すのかもしれない。  俺と違って高梨にはいつ彼女ができたっておかしくない。そうなれば、今みたいに俺の相手をしてくれることもなくなるのか。それはちょっと――ほんのちょっとだけ、寂しい気もする。 「迅さん、聞いてます?」 「えっなに?」 「だから、いっそ最初に言ってた水族館のほうがマシだって話です」 「でもここ行ってみたいんだよ、俺が!」 「……だから恋愛偏差値ゼロだって言ってるんですよ」 「なんだと?」 「楽しそうだねえ」  大きく伸びをしながら一歩が居室に入ってきた。 「実験はうまくいったのか?」 「うーん、いまいち。条件振っても思う結果が出てこなくて。一旦休憩するよ」  苦笑いを浮かべてソファに座る。めずらしくくたびれた顔だ。 「それで、なんの話をしてたの?」  横から一瞬冷ややかな視線が投げられた。断固として無視してやる。 「なあ一歩、このロボット工場見学、おもしろそうだと思わないか?」 「なになに? へえ、山崎重工か。小型の産業用ロボットっておもちゃみたいで可愛いよねえ」 「ほらみろ、これで二対一だ!」  高梨はわざとらしく息を吐いて「四之宮さんじゃ意味ないでしょう」とぼやいた。 「女子とのデートの話をしているんですよ。勝ち誇った顔をしないでください」 「なんだ、そんな話だったのか。じゃあ北原さんとはうまくいってるってこと? ――ってあれ、聞いちゃまずかったかな」  品よく口元を押えているが、目が笑っている。 「だからデートなんて気が早いって言ったんですよ。まだ合コンから一回も会えていないのに」 「そうなの、迅? それはちょっと焦りすぎだよね」 「おまえら……」  くすくすと笑う一歩につられたのか、高梨まで口の端を上げている。 「じゃあさ、一歩はどんなデートをしたいんだ?」 「デート? そうだなあ……」細い指が尖った顎に添えられる。 「一番いいのは、家でまったり過ごすことかな。おなかが空いたら好きな料理を僕が作ってあげて、おなかがいっぱいになったらゴロゴロして、特になにをするわけでもなく、ただぼーっとするんだ」  どこか遠く、だが確かななにかがそこに存在しているかのように、目を細めてつぶやいていた。思わず一歩が語った光景を想像をしてしまう。うつらうつらとしている間に、キッチンから良い匂いが漂ってくる。俺の腹は温かな食事に期待を膨らませて、ぐうと音を立てる。 「すごくいいじゃん……俺、一歩と付き合おうかな……」 「なに言ってるんですか、ありえないでしょう」  高梨が低くうなった。 「なんだよ、冗談に決まってるだろ。なあ、一歩?」  一歩はなにがおかしいのか、笑って肩をすくめるだけだ。 「そういう高梨はどうなの?」  仕切り直すように一歩が明るく言った。高梨の眉がくいと上がる。 「どういう相手かにもよりますが」ひとつ息を吐いて俺を見た。 「まだそれほど親しくないなら、映画を観に行きます」 「なんだ、意外と普通だな」  溜めた割に拍子抜けだ。高梨はいつものように皮肉めいた笑みを浮かべる。 「映画を観ている間は話をする必要はないし、観終わったらその作品について話せばいい。迅さんみたいにしゃべるのが下手な人にはぴったりですよ」 「なるほどねえ。迅、映画がいいんじゃない?」 「おい、二人ともさっきから俺をいじめて楽しいかよ」 「ごめんごめん。迅が恋愛相談をするようになるなんて意外でさ。僕たちの間でそういう話題はほとんど出たことがなかったからね。ついからかいたくなっちゃったんだよ」  ふわりと微笑む一歩を見ると、誰でもおおらかな気持ちになってしまう。一歩の不思議な魅力だ。この魅力はどうやら高梨にも有効らしい。相変わらず高梨は一歩だけは先輩と認めているように対応がいいのがなんだか気に入らない。 「でもどういう映画を選べばいいかもよくわからないし、やっぱり俺にはハードルが高いよ」  そう言うと、一歩はふうむとつぶやいた。 「前もご飯に行くシミュレーションをしたんだよね? じゃあ今回も高梨と一緒に映画館デートのシミュレーションしてみたら? おすすめの映画を教えてもらえばいいじゃん」  名案というかのように手を叩いた。 「こういうのは何度も練習して損はないし。そうだよねえ?」 「え? ええ、まあ……」  高梨ですら豆鉄砲を食らったような顔で一歩を見つめ返していた。唐突に何を言い出すんだ。 「必要ないって。いちいち練習に付き合わせても高梨はつまんないだろうし」 「誰も()()つまらないなんて言ってないじゃないですか」  高梨は勢いよく振り返り、早口でまくしたてた。 「いいでしょう、行きましょう。ちょうどいい映画が公開されたんです。今週土曜はどうですか? 空いていそうなら予約しておきますよ」 「え、本当に行くのか?」 「行きたくないんですか?」  映画館なんて高校生以来行っていないが、暗闇と音にすっぽりと包まれるあの空間は好きだった。だけど、高梨と隣り合って映画を観ている自分を想像すると――なんだかむずがゆい。 「じゃあ一歩も一緒に行けばいいよな」  俺の提案に一歩は目を見開いた。 「僕は……」  視線を俺、高梨、もう一度俺に戻してにっこりと笑みを浮かべる。 「やめておくよ。週末は予定があるし」  よっこいしょ、と言ってソファから立ち上がった。 「さーて、そろそろ実験に戻らなきゃ」  止めようとする間もなくすたすたと出ていってしまった。感情起伏の激しい武とは対照的に、常に温厚な一歩はかえって何を考えているのかわからないことがときどきある。 「……どうかしたのか?」  振り返ると、高梨は奇妙な表情を浮かべていた。困っているような、笑っているような、自分でもうまくコントロールできないといったふうに。照れている、という表情に似ている気がするが、今の会話の中で照れる要素がひとつも見当たらない。 「いえ……じゃあ今週土曜で。予約とかは俺がやっとくんで心配しないでください」  取り繕うように咳払いをして居室を去っていった。  ビニル手袋、バケツ、使い捨て用の雑巾。すべて専用の道具が裏には用意されている。それほどこの職場ではコレが日常茶飯事だからだ。臭いを防ごうとマスクをしてみたものの、残念ながら大して役には立っていない。時刻は午前二時。窓の外は深い闇に包まれている。 『朝木くん、すまないねえ。今こっちも手を離せなくて。大丈夫そう?』  インカムから店長の弱々しい声が聞こえてくる。爆音の音楽と、てんで音の合っていない歌声、どんちゃん騒ぎが後ろから追いかけてきた。 「大丈夫です。すぐ片づけてそっちのヘルプに行きますんで」  廊下に点々と連なる吐瀉物を前に、俺は深くため息をついた。  最後の客を見送り、清掃を終えてようやく事務所の椅子に腰を下ろした。 「いやあ、盛況なのはありがたいけど、今日の客は大変だったね」  店長は会計を締めて長く息を吐いた。店長の言うとおりだ。やっかいだったのは飲み会の二次会で来たと思われる大学生の団体客だ。さほどフードやアルコールを頼まないくせに、長時間居座ってそこらじゅうで酔いつぶれていた。 「あれ、速水くんは?」 「きっと煙草じゃないですかね」  いつも俺と同じ時間にシフトに入る速水は見た目こそチンピラだが、キッチンに一人いると驚くほど回転率が上がる。個人的な会話をしたことはほとんどないが、忙しいときにいてほしい頼れるスタッフの一人だ。 「そういえば朝木くん、来月のシフトはまだ出してなかったけど、どうするの? 今月と同じ感じ?」 「ええ、そのつもりですけど……なにか問題がありますか?」 「いやいやいや、その逆だよ! 朝木くんや速水くんみたいに朝五時の閉店までコンスタントに入ってくれるバイトさんは貴重だからさ」  カラオケ店でバイトをしている理由はまさにそこだ。日中は授業やゼミでどうしてもバイトを入れづらい。夕方以降は研究室にいたほうが指導教員との遭遇率も上がるし、後輩や一歩たちと議論をしたり実験をしたりできる。そうなると夜中にできる仕事がいいが、コンビニは時給が安くて居酒屋は閉店時間が中途半端だ。その点、カラオケ店はまとまった時間働くことができて、時給もそれなりにいい。今日みたいな面倒な客は多いが、宴会シーズンや大学の夏休み以外は暇なときもあるし、俺にとっては都合の良い職場だった。 「卒業するのはいつだっけ?」 「次の春で修士は卒業しますけど、そのまま三年は大学にいますよ」 「ああ、そうだったね。じゃあ、あと三年はいてもらえるってことか!」  曖昧な笑みを店長は肯定ととらえたらしい。  バイトをせずに済むなら、それに越したことはない。睡眠時間は削られる。頭の回転が鈍くなる。本業の勉強や研究に支障が出る。それでも生きていくために金は必要だ。  春から学奨に採用されたら。学費も生活費にも困ることはない。研究費だって好きに使える。それだけではない。研究者としてこの最初の関門を突破できるかどうかが、将来の就職先、そして収入にも大きく関わる。奨学金という多額の借金の返済に怯えることもない。  それなら就職しろよ、と言われたことがある。学位が取りたいだけなら、就職してからだって取れるだろうと。もちろん俺だって考えなかったはずがない。だが、やりたいことが目の前にあって、多少のリスクはあっても手段がある。その状態で自分に無理をさせてまで、わざわざ回り道をする必要があるとは思えなかった。それに、勉強だけをしたくて大学に来たわけではない。机上の勉強というよりも、実際に人の役に立つロボット開発に関わりたかった。その下準備としてロボサーに入って技術や知識を蓄えたかった。他人から見れば、サークル活動なんて「遊びの一つ」と思うかもしれないが、俺にとっては何物にも代えがたい貴重な経験だった。  つまるところは、俺自身のわがままを貫いているだけだ。それを理解しているから、俺の大学進学に対して一切金を出さないと決めた親を恨んだりはしていない。残念ながら向こうが同じ考えとは限らないわけだが。  金がなく、返済の見込みもない借金をしていることは事実。だから今まで、自分の目標に必要と思うこと以外には極力金を使わないようにしていた。幸い、サークルや研究室でも無駄に飲み会をすることはなかったし、最低限の服しか持っていなくても、千円カットで髪を切っても、気にするようなやつは周りに誰もいなかった。  そんな中で武に誘われて合コンに参加したのは、突然世間に取り残される予感にさいなまれたからだ。  一歩も武も就職先が決まり、社会の一員として自立する。日々の仕事で経済を回し、そのうち恋愛をして、結婚をして、家庭を築くのかもしれない。  対して俺はどうだろう? 限られた人間関係の中で、変わらない日々を過ごす。恋愛なんて考えたこともなかった。  少しくらい。俺はそのとき、心の内でつぶやいた。俺だって少しくらい、「無駄」を楽しんでもいいんじゃないだろうか。      小さな振動が腿に響き、ふと我に返った。店の裏に停めていた自転車に荷物を引っかける。 「こんな時間に誰だ……?」  薄明の赤い光が画面に反射する。  北原詩織のアイコンが現れた。 『お返事遅くなってごめんなさい。急ですが、今週の土曜日ならご飯に行けそうです。いかがですか?』
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