第一章 8. 理論は時に裏切ることがあります

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第一章 8. 理論は時に裏切ることがあります

「美味しいですね」  ひっそりとした声が、またしても自分にかけられたものだと気づかなかった。 「ああ……うん。よかった」俺は意識を引き戻し、とりあえず返事をした。浮かべた笑みはぎこちなくないだろうか。 「このカフェ、オープンしてからずっと気になっていたんですが、一度行こうとしたときは偶然満席で入れなかったんです。予約してくださって、ありがとうございます」 「いや、そんな」  高梨に言われたから。そう言いそうになって口をつぐんだ。    窓の外から、小さな子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。近くのベンチで母親たちがおしゃべりに花を咲かせている。  高梨と来たときは雨上がりだったな、と思い出した。あのとき公園の遊具は雨に濡れていて、雲の隙間から射した陽光に照らされてキラキラと光っていた。  案内された席は、偶然にも高梨と来たときと同じ席だった。見えている風景は同じだが、向かい側に座っているのは北原詩織だ。ふと自分の服を見下ろす。シャツだけは新しいものに買い替えたから、さすがに今回は焦げ跡はない。高梨の皮肉顔がまた頭に浮かんだ。 「迅さん、土曜のことですけど」  居室に入ってきた高梨がまっすぐに俺のデスクまで歩いてきた。 「ああ、そのことなんだけど……」 「なにかありました?」  高梨が空いた椅子に腰かけた。 「北原さんから土曜なら飯に行けるって連絡が来たんだ。だから――」 「そうですか、よかったじゃないですか」  遮るように言って、端末をいじりはじめた。 「まだ予約とかしてないよな?」 「……大丈夫ですよ。それより、そっちの準備はできているんですか? 店も予約したほうがいいですよ」 「わかってるって」  物分かりの悪い子どもに言い聞かせるような口ぶりに、思わずむっと言い返した。高梨が顔を上げる。かちりと視線が合った。端正な顔は無表情だ。先に視線を逸らしたのも高梨だった。 「いつも通りでいれば、きっと大丈夫ですよ。がんばってください」 「お? おう……さんきゅ」  椅子がぎいと軋む。姿勢の良い後ろ姿が遠ざかる。 「――朝木さん?」 「え? あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」  誤魔化すように頭をかく。詩織はさして気にしていないというように微笑んだ。 「カラオケのバイトって、どういうことをするんですか?」  そうだ、バイトの話をしていたんだった。 「えーっと……受付、掃除、フードやドリンク作りかな」  へえ、という顔をするが、続きを待っているみたいだった。しまった、答えが()()()()た。 「客が来たら受付をして、部屋を割り振ってしまえば基本的にはおしまいなんだ。でも、フードやドリンクの注文があると結構忙しくなる。団体客が被ると結構大変なんだよね。部屋を行き来して、結局誰が頼んだものなのか本人たちもわからなくなってたりするし」 「なんだか居酒屋のバイトと似ていますね!」  詩織はぱっと顔を明るく輝かせた。そういえばメッセージのやりとりの中で、昼はダイニング、夜は居酒屋でバイトをしていると言っていた。そしてそのバイトのシフトを詰め込んでいるから、なかなかスケジュールが合わなかったのだ。 「居酒屋のバイトのほうが大変なんじゃない? うちは純粋に歌いに来ている人も多いから楽だけど、居酒屋だとほとんどもれなく酔っぱらうわけだし」 「そうですね……ひどく酔っぱらってしまったお客さんがいるときは大変ですよね。たとえば――」  酔っぱらい客のあしらいかた、トラブルが起こったときの対処法、注文の行き違いや掃除の苦労――話をしてみれば詩織の言うとおり、俺たちのバイトは似ているところが多かった。 『同調効果というそうですよ』  落ち着いた声が脳裏をかすめていく。さっきからどうしてちらちらと出てくるんだ。俺は今、目の前にいる人に集中しなきゃならないっていうのに。  原因は罪悪感、だと思う。散々俺の都合に付き合わせておいて、高梨と先に約束をしたのに詩織を優先させた。  いや、映画なんていつでも行ける。そもそもデートの練習のためなんだから、本番を優先させて当たり前じゃないか。大したことじゃない。  ここ数日、何度も自分に言い聞かせている言葉を唱えるように繰り返した。それでも気になってしまうのは、視線を逸らした高梨の横顔がいつになく暗く――まるで傷ついたみたいに見えたからだろうか。  雑念をかき消すように頭の中で話題のカードを広げる。 「どうして居酒屋でバイトをしようと思ったの?」  目の前の大人しい彼女が居酒屋でハキハキと動くところをなかなか思い描けない。  詩織は少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。 「そのとき募集されていた他のバイトよりも時給が良かったんです。留学するためのお金を少しでも多く貯めたくて……」 「留学資金を自分で貯めるってすごいことだよね」 「でも、成績優秀なら学費が免除になったり奨励金がもらえるんです。私はそこまで良くなかったから……」 「それでも諦めずにがんばっているんだから、偉いと思う」  そう言うと、顔を赤らめてうつむいてしまった。今のは少し前のめりすぎただろうか。  国や期間にもよるかもしれないが、私費留学にはそれなりの額が必要になるはずだ。自分で努力をして夢を叶えようとしている状況は俺と似ているんじゃないだろうか。  やっぱり、間違いなかった。この子のことを「好き」だと思ったのは間違いなんかじゃないはずだ。それなのに、どうしてこうも喉になにか引っかかったままのような違和感が拭えないのだろう。 「ロボットの指――」 「えっ?」  水の入ったグラスを軽く持ち上げる。ロボットの手指の制御はとても難しい。柔らかいもの、硬いもの。重いもの、軽いもの。つるつるしたもの、ざらざらしたもの。ただ掴むだけでも、壊さないように、落とさないように、傾かないように、複雑な情報を得ながら指示を与えないといけない。人間はそんな高等なことを無意識にやっているのだ。きっとこんな話、詩織はまったく興味がないだろうからしないでおくけど。  でも人間も万能じゃない。距離を誤って取り落とすこともある。思ったよりも力み過ぎて潰してしまうこともある。俺が掴もうとしているものは、一体どんな形をしているのだろう。こんなにも何も見えていないのに、壊さずに、こぼさずに、きちんと掴み取ることはできるのだろうか。  少し気まずい沈黙が流れた。よく見れば、二人ともすべて食べ終わっている。 『食べ終わったら、あまり長居はしないこと。最初は短く終わったほうがいいと思います。話し足りなかったとしても、他の店に移るよりも次回につないだほうがいいでしょう』  悔しいことに、これも高梨のアドバイスだ。  今回は心配していたよりも会話はできていた。初めてにしては上々じゃないか。だが全部高梨のお膳立てがあってこそだ。俺一人じゃ何もできなかった。 「そろそろ出ようか」  俺の言葉を聞いて、詩織がほっと息をついたように見えた。俺も肩の力を抜きそうになる。いやいや、最後まで気を抜いたらだめだ。  詩織は駅ビルに用事があるというので、そこまでは一緒に歩くことにした。今さらになって緊張が走る。道行く人たちの視線が気になった。俺たちは一体どんな風に見えているのだろう。ただの先輩と後輩? それとも―― 「あの、私はここで……」  はっと気がつくと、すでにビルの前まで来ていた。ほとんど話さずに歩いてきてしまったらしい。これでは先輩後輩どころか、赤の他人だ。 「あっ、今日はありがとうございました」 「いえ! こちらこそありがとうございます」  他人行儀に頭を下げあう。詩織は最後にもう一度会釈をして、ビルの中へと消えていった。 「はあああ……」  一気に緊張の糸がゆるむ。身体のあちこちが強張っているように感じた。  帰ろう。そうつぶやくのが精いっぱいなくらいだ。  踵を返したとき、柱に組み込まれたディスプレイの広告が切り替わったのが見えた。公開中の映画の宣伝のようだ。  そういえば、高梨はなんの映画を観たかったんだろう。  考えかけて、いい加減に自分で呆れかえった。  俺、呪いにでもかけられてるのかな? なにをやってもあいつの顔と声が浮かんでくる呪いに。  そんなことをつらつらと考えながら、足は自然と研究棟へと向かっていた。帰巣本能みたいなものだ。実際、寮よりも研究室のほうが圧倒的に過ごしている時間が長い。一番落ち着ける場所に、早く帰りたかった。  それなのに、扉を開いて高梨の姿が見えた瞬間、なぜかもう一度身体が強張った。ほかにひと気はなく、静寂が部屋を満たしている。 「どうでしたか?」  黙ったままの俺にしびれを切らしたのか、座ったまま椅子をくるりと回して俺に向き直った。 「……なにかあったんですか?」 「あ、いや……うまくいったよ! さすが俺、本番に強い男って感じだな!」 「そうですか」  無感動な返答が、無性に腹立たしく感じた。デートの間中、高梨のことを気にしていた俺は馬鹿みたいじゃないか。 「北原さんは昼も夜もバイトで忙しいんだよな。留学資金を貯めるためにがんばってるんだって。居酒屋のバイトなんて特に大変だろうに、本当に偉いよ。俺のバイトとも共通点が多くて、話が盛り上がっちゃってさ!」  舌が駆け足をしているみたいにぺらぺらと言葉をつなぎだす。高梨のおかげだ、ありがとうって本当は言わないといけない。頭ではわかっているのに、どうしてもそのひと言だけは口をついて出てこない。 「本当はもっと留学の話とか聞きたかったんだけど、あまり引き留めたら悪いかなと思って。まあ次回は本格的にデートしちゃっても大丈夫じゃ――」  高梨が音もなく立ち上がった。  まっすぐに俺の方に向かって歩いてくる。鋭い視線で磔にされているみたいに、俺は一歩も動けない。  目の前で立ち止まったときでさえ、俺は視線を逸らすことができなかった。高梨は一度口を開きかけ、吐く息とともにそっと閉じる。不意に視線の呪縛が解かれた。 「よかったですね、うまくいって」  するりと横を通り抜ける。鈍い音を立てて扉が閉まった。
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