第一章 9. そろそろ目標を見失う頃合いです

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第一章 9. そろそろ目標を見失う頃合いです

「そういや、最近高梨見ないなあ?」  ソファの上でほとんど寝そべるように武がのびをした。一歩が肘かけにそっと腰をおろす。 「そうだねえ……って言っても、三日くらいじゃない?」 「俺の方が出席率がいいな!」 「なんの自慢だよ。っていうかおまえはちゃんと自分の居室に通えよ」  丸めたノートでぺしりと脚を叩いてやるが、一向に動く気配はない。 「迅、高梨とは会ってないの?」 「な、なんで俺?」 「だって最近、暇があれば一緒にいたじゃないか」  なにを今さら、とでも言いたげに一歩は首をかしげた。    高梨が研究室に来ていないのは、正確には四日間だ。一番最後に会ったのは土曜日、俺が北原詩織と出かけた日。  土日祝日に関わらず毎日必ず研究室にいた人間がいないとなると、気になっても仕方がないのかもしれない。 「二年分の授業をまとめて取ってるんだし、単純に忙しいんじゃないか?」 「それならいいんだけど……タケちゃんや僕と違って一人暮らしだから、風邪とか引いてたら大変だろうなって思って」  確かに、体調を崩したからといってわざわざ研究室に連絡を入れる必要もないから、知らない間に部屋でひとり倒れていたとしても誰も気づくことができない。寮ならまだしも、アパートならなおさらだ。 「心配しすぎだろ。もし風邪だったとしても、高梨にだって友だちがいるだろうし何とかするさ」  武の言葉に俺はうなずいた。そうだ、なにも心配する必要はない。最後に会ったときに高梨のようすが変だったことも――俺が気にする必要なんてこれっぽっちもない。 「……迅、なにかあった?」  なにもかも見透かしてしまいそうな灰色の瞳が俺の顔をのぞきこんでいた。 「え、いや……なんでもないよ」  一歩はなにか言いたげに目を細めたが、「そっか」とだけつぶやく。 「あー、なんか腹減ってきたな。そろそろ飯食わないか?」  滞った空気をかきまぜるように、武が勢いをつけて立ち上がった。  家路を急ぐ人々が駅の入口へと吸い込まれていく。隣に立つビルのガラス窓に、茜色に染まった雲が色鮮やかに映し出されている。 「ファミレスがいいなんて、珍しいね」  一歩が席に着くなり言った。 「今日はなんとなく大学の外に出たかったんだよ。ここは眺めも良いしさ」  確かにね、と窓の外を見やる。眼下でうごめく人、人、人。三階の席から見下ろす景色は、ジオラマというには生々しく、動くものひとつひとつの温度を感じる。 「そういえば、北原さんとはどうなったんだ?」  注文を終え、店員が離れた瞬間に武が身を乗り出した。野次馬精神丸出しのニヤケ顔だ。 「ああ、まあ……飯にだけは行ったよ」 「なんだって? おいおい、水臭いやつだな。なんで俺に言わないんだよ!」 「なんでって、べつに……」  まあまあ、と一歩が武をたしなめた。水の入ったグラスをくるりと揺らし、氷を眺めながらさりげなく俺を見る。 「そのようすだと、うまくいかなかったってこと?」 「いや、そんなことはないと思う、けど……」 「なんだか歯に物が挟まったみたいな言い方だな。もったいぶらずに教えろって」  促されるままに、どこの店に行ったのか、どんな話をしたのかを並べてみる。 「ふうん、確かにそれほど悪くは思わないけど……」 「まあ、可もなく不可もなくってところか。それで、北原さんはどんな感じだったんだ?」 「どんな感じって?」 「リアクションとか表情とかさ。服や化粧にも気合いが入ってたりしてなかったか?」    脳内で映像を巻き戻そうとしてみる。  大きな窓、明るい陽射し、鮮やかな緑の観葉植物。  目の前に座っている詩織は、もやがかかったように輪郭がぼやけている。 「……あんまり思い出せないんだ」  たった四日前のことなのに、詩織の表情や仕草に関する記憶がほとんどない。  思い出そうとして浮かんでくるのは、別の形だった。  真っ赤なトマト、不機嫌に寄せられた眉の形、意地をはった口元。 「緊張しすぎちゃったのかもしれないね」  一歩がフォローするように言った。 「情けないやつだなあ。ま、がんばれば次も行けるだろ!」  どんまい、という言葉にも曖昧に笑うことしかできない。 「あれ……あそこにいるの、高梨じゃないか?」  武が窓に額をつけるようにへばりついた。視線の先は向かい側の駅ビルの前、背の高い男が本を開いてたたずんでいる。 「本当だ。誰かと待ち合わせかな」  あ、と一歩が声を上げた。  華奢な女性が小走りで近づいていく。高梨は本を閉じ、相手に向かて微笑んだように見えた。 「あれって、もしかして北原さんじゃないのか?」  二人は並んで歩き出した。表情ははっきりと見えないが、詩織は艶のある栗色の髪をなびかせながら楽しげに会話をしているのはわかる。詩織の頭は高梨の肩のあたりにあって、肩幅のある高梨と並ぶとひと際小柄に感じる。 「なんだよ、風邪どころかまさか女の子とデートとは、良いご身分だぜ」武がつぶやき、鼻で笑った。 「しかしお似合いだな。迅、北原さんは高梨に取られちゃったんじゃないか?」 「タケちゃん!」  とがめるように一歩が小さく声を上げた。 「北原さんのほうが高梨になにか用事があったんじゃないかな。そうじゃなきゃ、高梨があれほど迅に協力するはずがないじゃないか」 「でも高梨のやつ、よく考えたら最初の合コンのときだって迅を挑発してたんだろ? 爽やかな顔して、案外せこいとこあるのかもしれないぜ」  まるで水中にいるみたいに、武と一歩の声が遠く聞こえる。  小さくなる二つの背中から俺は目を離せずにいた。  窓の外は吸い込まれそうな暗闇に覆われている。隣の研究棟の明かりも、ひとつ、ふたつと消えていった。普段は聞こえない機械の小さなうなり音が、絶え間のないノイズとなって部屋の中に横たわっている。 『お似合いだな』  武の言葉が頭の中でこだまする。    かちゃり、と扉が開く音とともに、雨の匂いが滑りこんできた。 「あ……」  高梨が驚いたように立ち止まる。肩のあたりが濡れているのが見えた。一度交わった視線はすぐに外され、高梨は自分のデスクへと向かう。 「久しぶりだな」  俺の声にはっと顔を上げ、振り返った。 「ええ……そうですね」  一瞬戸惑いを見せたものの、そのまま言葉を継ぐことなく席に座る。  なにも知らないふりをするつもりなのか。腹の底でどろりと黒い感情が渦巻く。立ち上がり、高梨のもとへ歩いて行く。 「今日の夕方、駅のあたりに行かなかったか?」 「え?」 「偶然見かけたんだよ。おまえと北原さんが一緒にいるのを」  わずかに見開いた目が真実だと告げていた。最後にかろうじてつながっていた糸がぷつんと切れる音がした。 「デートのシミュレーションだのなんだのって協力的だったくせに、俺に黙って二人で会うのはおかしいと思わないか」  尖った声が響く。 「事前に言わなかったことは謝ります。ですが――」 「いったいなんの用があったんだ」 「……留学の話です。カナダの大学に知り合いがいるって言ったら、相談させてほしいって言われたんです」 「カナダだって?」 「ええ、彼女はカナダに留学を希望していて――」  どこの国に行きたいかなんて()()聞いていない。どうしておまえは知っている? 俺の知らないところでずっと連絡でもしていたのか? 「最初は会うつもりなんてなかったんです。でもこの間……『うまくいった』って、そう言ったから」 「なんの話だよ」 「デート、迅さんが『うまくいった』って言ったから、いてもたってもいられなくなって。北原さんがあなたのことをどう思っているか、どうしても気になったから……」  北原さんが俺のことを好きか気になったって? 「おまえさあ……俺のこと馬鹿にして、楽しんでたんだろ」 「え?」 「女子に不慣れだって騒いで、デートだなんだってあたふたしている俺はさぞや滑稽だっただろうさ。おまえはそんな俺を見て、親切に指南するふりして、裏でこそこそ北原さんと連絡をとって、どうせうまくいかないって腹の底ではせせら笑ってたんだ」  自分でもみっともないことをしてるってわかっていた。  不釣り合いに恋愛ごっこなんかしたって、うまくいくはずがないって。  少しくらい。そう欲張った俺に、高梨は見かねて手を貸してくれていたんだと思っていた。些細なことさえうまくできない俺を助けてくれているんだと思っていた。  生意気で、憎たらしいけど、信頼していた。居心地がいいとすら思っていたんだ。  根気強く俺を励ましてくれていた言葉も行動も、全部嘘だったっていうのか。 「おまえを信じていた俺が馬鹿だったよ」 「ちょっと待ってください」  高梨が険しい顔で立ち上がった。 「待つってなにを? 次のおまえの指示を待つのか? 周到に用意したプランで告白してみろとか言って、玉砕するところを見て笑うんだろうな」 「違う、そうじゃない!」  声を荒げたいのは俺のほうだ。苦しげにゆがむ表情にもなにひとつ心を揺さぶられない。 「俺の計画ではこんなことにならなかった」 「はっ、まだそんなこと言ってるのか。計画だのシミュレーションだの、いい加減に――」 「合コンだって今まで一度も行かなかったのに急に行くって言い出すなんて思わなかった。でも迅さんが彼女のことを好きだって言ったから、今だけは諦めようと思ったんだ……今はまだ、俺は追いついていないから」  話がまったく見えない。苛立たしさに握りしめた拳が血の気をなくしていく。 「やっぱり彼女のことを諦められなかったって言いたいのか?」 「違う! 俺は――」ぐっと息をのんで俺を見据えた。 「今まであなたに追いつこうと必死だった。ちゃんと自分にけじめをつけてから言うつもりだったんだ」  いつのまにかノイズは消え去っている。どこか遠くで時を刻む音が聞こえる。 「俺が好きなのは――俺がずっと好きなのは、迅さん……あなたなんだ」
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