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第一章 1. 工学部で「恋愛」は研究テーマになりますか?
「へえ! 松浦さんってソミーに就職が決まったんですか、すごーい!」
「武って呼んでいいよ、つぐみちゃん。まあ、そんな大したことじゃないけどねー」
得意顔を隠そうともしない友人を横目に、俺はすっかり汗をかいてしまったジョッキを手にした。武に注目が集まっている隙に、目の前に並ぶ女子たちをこっそりと観察する。
会社名に真っ先に反応したつぐみは、俺と反対側の一番端に座っていた。明るい髪色に加えて遠目から見ても派手な顔立ち――いや、化粧? であることがわかる。その隣に座っているのは女子側の幹事だ。確か朱音という名前だったはず。ほとんど金色に近い髪は耳のあたりで切り揃えられていて、耳には大きな輪っかがぶら下がっていた。薄い耳たぶが、重みで下に伸びている。思わず身震いをして目を逸らした。
「四之宮さんはどこに内定したんですかー?」
俺と武に挟まれて座る一歩に声をかけたのは、朱音の隣に座る茶髪がふわふわした子――だめだ、もう名前が思い出せない。
「三田電気だよ」
「へえ……?」
場になんとも言えない微妙な空気が流れた。俺は思わず声を上げようとしたが、一歩がそれを察して俺の膝を小突く。抗議の目を向けると、苦笑いをして小さく首を振っていた。
三田電気は通称MEC、そう言えば誰もがわかる大手電機メーカーだ。ソミーより年収は多少劣るかもしれないが、安定している企業だし、彼氏候補としては申し分ないはず。わざと知られていないほうの名称を使ったのは、この場で幼なじみに花を持たせようとしたのだろう。一歩は最初からこの合コンには乗り気ではなかったし、今もややくたびれて見える。
「それでそれで! 高梨さんは……」
つぐみの真正面、俺の反対側の端に座る男に一気に注目が集まった。
「俺は就職じゃなくて進学です」
「進学? えっと……今は修士だから、博士課程ってことですか?」
「そう」
素っ気なく答え、カラカラと氷の音を立てながら洒落たカクテルのようなものを呷っている。
高梨のやつ、自滅したな。
俺は内心でせせら笑った。
進学、博士課程。
このワードにキラキラ文系女子たちがときめくはずが――
「えー! 修士も一年で飛び級するんですよね? それで進学って、噂どおり本当に頭良いんですねぇ!」
すごいすごい、と黄色い声が湧き上がる。武が小さく舌打ちするのが聞こえた。
高梨龍成は、我らが工学部の中で今最も有名な男だ。その名前を広めるきっかけとなったのは、毎年夏にテレビで全国放送される『鳥人間コンテスト』――人力飛行機の全国大会である。
数十年ぶりに全国大会出場を果たした大学の鳥人間サークル、工学部三年のときにキャプテンを務めた高梨は、テレビ放送でもその働きぶりが大々的に取り上げられた。サークルごとにドキュメンタリー風にまとめられた映像のほとんどのシーンに登場していたらしい。大会では出場部門で三位入賞。当時は学内でも相当話題になっていた。
大会自体は二年も前の話だ。しかも番組自体見たという人は元々それほど多くないはずなのに、今もこうして話題に上がるのはインターネットの影響だった。その爽やかすぎるルックスで部員に厳しく激を飛ばす姿、自分たちが造った人力飛行機が見事に空を翔けた瞬間の弾ける笑顔、入賞時の端的かつ謙虚なコメントで、なんとか王子だのなんだのと世間を騒がせていたのだ。一時は大学の広報誌やホームページにも全面に出され、雑誌かなにかのモデルまで務めていたらしい。
ま、俺はひとつも見てないけどな。それもこれも、全部ゴシップ好きな武から聞いた話だ。
薄暗い個室の中でも、オレンジ色のライトが高梨だけを照らしているように見えた。やや茶色みのある髪が赤く透けて余計にキラキラ度が増していやがる。地毛だと言っていたが果たして本当かどうか。当の本人は気だるげに椅子にもたれかかっているが、それすらもサマになっているのが腹立たしい。
高梨とは研究室が同じだが、ゼミで議論する以外に会話らしい会話をしたことがなかった。一学年下というのもあるし、なんとなく俺とは別の世界の人間という感じがしていたからだ。話なんてまったく合いそうにない。よりによって、なんでこいつと一緒に合コンに参加しなけりゃならないんだ?
ふいに高梨と目が合った。
「あ、迅さんも進学組ですよ」
「おいっ……」
端正な顔に一瞬だけ意地の悪い笑みが浮かんだ。
案の定、女子側からは「へえ」とか「そうなんですかぁ」とか気のない相づちだけが返ってくる。なんだよ、そのリアクションの差は!
工学部に入学する人間の九割以上は修士課程まで進学する。そうしなければ、就職が不可能に近いからだ。逆に、修士まで進学してしまえば就職に困ることは滅多にない。一歩や武が就活をした機械メーカー系に限らず、医療、農業、化学、服飾――どんな分野にも工学の知識は必要とされるのだ。そこまではよく知られていることかもしれない。
ところが、博士課程まで進学した途端に就職率も、一般的な評価もガタ落ちになるのである。
大学に九年間。鼻を垂らして小学校に入学した子どもが、ニキビだらけで中学卒業するほどの長い年月だ。そこまでして、一体なにをやりたいのか。普通の人間ならそう考えて当然だろう。特に女性の目には、「働きもせずにいつまでものらりくらりとわけの分からないことをしながら年だけ食う将来性のない男」と映っても仕方がない。圧倒的不良物件、それが日本における博士課程の認識ということだ。
あいにく高梨は例外のようだが。
俺は自分の正面に座る子をそっと窺った。
北原詩織、この子だけはフルネームをちゃんと覚えている。明るすぎない栗色の髪はつやつやと綺麗で、他の子と違って化粧は控えめだ。ほとんど聞き役に徹しているが、適度に相づちを打ち、くすくすと小さく笑うときにできるえくほが好印象だった。
「勉強するのが好きなんですね」
詩織が小声で言ったその言葉が、自分に向けられたものだと気づくのに三秒ほどかかった。
「あっ……はい、まあ……」
正確に言えば「勉強」ではなく「研究」が好きなんだけど――
頭で考えても言葉はすぐに出てこない。その上、にっこりと微笑まれてしまえばますます喉が詰まってしまう。こんなにも女子らしい女子と会話をするのは、一体何年ぶりだろう?
手に妙な汗をかいた気がして、無造作に置いていたおしぼりを手にした。そこでふと、昨日武から指示されたことを思い出した。
『気に入った子がいたら、おしぼりの向きをその子のほうに向けて置け。そうすれば俺たちの間で誰が誰を狙っているかがわかるから、無駄な争いがなくて済むだろ?』
なるほど、合理的だ。さりげなく、そう、さりげなくおしぼりを畳み、くるくると丸めて――詩織のほうに向けて置く。
「あ、私ちょっとお手洗いに……」
「私も行く。詩織と由依は?」
「ううん、大丈夫」
つぐみと朱音が唐突に席を立ち、ついでとばかりに武と一歩も腰を上げる。
「俺だけ置いていくつもりか!」
小声で訴えかけたが、武は肩をすくめて顎で反対側を指した。高梨が悠々と座っている。
テーブルに四人が残され、しかも俺の目の前に詩織と由依(という名前らしい)。会話、そう、会話を続けなければ。
「あっあの……ご趣味は……?」
ぷっと噴き出す音が端から聞こえてきた。肩を震わせた男が立ちあがる。そのまま俺のもとまで歩み寄り、隣の椅子を引いた。
「今どき『ご趣味は?』とか、ドラマでも聞いたことないですよ」
くつくつと笑う高梨につられて、詩織と由依も堪えきれないように笑いをこぼしている。
「すみません、俺たち工学部なんで女性と話す機会が滅多にないんですよ。女性の多いサークルに入っていれば関係ないんですけど。でも迅さんはロボサーだから仕方ないんです」
「ロボサー?」
「そ、ロボットサークル。残念ながらここ数年、女性はいません。ですよね?」
さっきまでのやる気のなさは一体どこにいったのか、高梨は俺を置いて一人で勝手にしゃべり始める。しかも相手をしている二人も楽しそうだ。高梨については聞きたいことがたくさんあるらしく、サークルのことやモデルをやったときの話など、話題が尽きる様子はない。
「あっ……」
高梨が手にしているのは、俺が丁寧に丸めたおしぼりだった。
「あれ、これ迅さんのですか? すみません、使っちゃいました」
まったく悪びれた様子もなく四角く畳み、テーブルの上に置いた。これではどっちを向いているかなんてわからない。だが、俺がわざわざもう一度手に取って丸めるのも不自然だ。
「あれ、席替えしたのか。まあちょうどいいか」
武たちが全員戻ってきたが、高梨はどっかりと座ったままで元の席に戻るつもりはないらしい。
「新しいおしぼり、もらいますか……?」
おずおずと提案してくれたのは詩織だ。やっぱり俺が見込んだとおり、良い子だなあ――
「あー、またやっちゃいました。すみません」
ぱっと両手を広げた高梨を、俺は呆然と見ていた。
「だって紛らわしいんですもん、ねえ?」
またしても高梨におしぼりを崩された。
新しくもらったものを細く丸め、もう一度詩織のほうに向けて置いていたというのに。
ねえ? と問いかけられた詩織も、困ったようではあるが笑っている。
高梨にこんな「愛嬌」のような真似ができるとは思いもしなかった。いつも研究室でぴりぴりして、後輩や同期すらもビビらせている男は一体どこに行きやがった?
会話にも置いてきぼりにされているし、と黙って立ち上がろうとすると、くいと服の裾を掴まれた。
「どこに行くんですか?」
「トイレだよ、トイレ!」
小声だがきっと詩織にも聞こえているに違いない。恥ずかしくなって足早にトイレのほうへ向かった。
手を洗い終え、顔をあげると鏡越しに高梨と目が合った。壁にもたれかかり、腕を組んで立っている。
ちょうどいい機会だ。白黒はっきりつけてやろうじゃないか。
「高梨、まさかおまえ、俺の邪魔をしようとしてるんじゃないだろうな!」
「何のことですか?」
「しらばっくれるなよ。おまえも……北原さんのこと狙ってるんだろう」
高梨は片眉を上げ、ずいと俺の前に足を踏み出した。背丈はそれほど違いがないはずだが、ひょろひょろと筋肉のない俺と比べて、高梨はガタイが良かった。そんな男に目の前に立たれると威圧感しかない。
「もしそうだったら、どうします?」
詩織は気遣いもできる可愛らしい子だから、他のやつが狙っても仕方がない。だが、高梨に狙われたとなったらこれっぽっちも勝てる気がしない。さっきの会話の様子を見ても明らかだ。
じっと俺の様子を窺っていた高梨が、ふっと笑みをこぼした。
「邪魔なんてしませんよ。そんなことしなくたって、どうせうまくいかなさそうだし」
「どういう意味だよ!」
目を瞬かせ、俺の顔から足先、そしてもう一度顔まで視線をやり、ため息交じりに答えた。
「迅さんって、頭はいいけど恋愛偏差値はゼロなんですね」
「はあ?」
なんだかものすごく失礼なことを言われた気がする。仮にも俺はこいつよりも一つ年上だというのに。
修士課程を飛び級? 同期の武も一歩も卒業して、来年からこいつが俺の唯一の同期になるって?
「仕方ないだろ! 男ばっかりのところで今までやってきたんだ。女子とどうやって付き合えばいいかなんてわかるはずがないだろ!」
高梨は少し驚いたような表情を浮かべた。だがそれは一瞬のことで、やれやれと首を振り、出口の方へと向かっていく。
ドアを開こうとした手を止め、立ちすくむ俺を振り返った。
「じゃあ……恋愛も、研究と思って考えてみたらどうですか? 得意でしょう、先輩」
世間で爽やかと騒がれている憎たらしい笑顔が、ドアの向こうに消えていった。
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