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幼稚園から同じと言っても、木村光太とは仲良い友達というわけではない。家も場所を知っているだけで、訪れるのは初めてだった。同じ団地内の別棟の一階に「木村」の表札を確認して呼び鈴を鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「あの、私、学校のプリントを持ってきました」
「ああ、光太の……。上がっていく?」
玄関先で渡すものだけ渡して帰るつもりだったし、出てきたのが白髪混じりのくたびれたおばあさんのような母親だったので戸惑ったが、ふと思う。木村君の家に入ったと言ったら、梨桜ちゃんと遥香ちゃんは面白がってくれるかもしれないし、学校に居るのとは違う、普段使いの木村君を見たと言ったら一目置かれるかもしれない。そう考えつくと、またフワフワと楽しい気持ちが膨らんできて、「はい」と返事する。その反応に木村君のお母さんは少し驚いたような顔をしたが、ドアを開いて招き入れてくれた。
開かれたドアの中、玄関には靴箱に収まりきれず溢れかえった靴、靴、靴…。なんとか隙間に足をねじ込んで靴を脱ぐ。我が家とは左右が逆の、鏡のような間取りに違和感があって、物珍しい。しかし楽しいのはそこまでだった。湿気っぽく埃っぽい室内は、締め切られた暗い色味のカーテンも、床の上に放り出された荷物も服も、どこを見ても無機質な黒や紺や灰色で、少し怯んだ。
座るよう促された座布団は、冷たく湿り素足に吸いつくようで気持ち悪いが、申し訳ないので下りられない。暗い部屋で小さくなりながら、さっきまでの浮ついた高揚感はすっかり萎んでいた。
「これ食べる?」
台所のテーブルの上を漁っておばさんが出してきたのは、小袋に入った二枚入りのお煎餅と小袋の柿ピーで、「これは私の食べ物ではない」と感じて手が出ない。今、この家の中で色のあるものは、自分の服とランドセルだけだ。ああ、キーホルダーを外さなければ良かった、と後悔する。あのジャラジャラした無駄で可愛いものたちは、この灰色の世界で自己主張を続ける強さがあっただろう。そもそもこのつまらなそうに黙ったままの灰色のおばさんは誰なんだろう、自分の知る「お母さん」というものとは全く別の生き物のようだ。
もう帰りたくて仕方なくなっていると、奥の部屋からがさごそと物音がしてきた。木村君だろうか? 木村君にちょっとだけ会って、「プリント届けにきたよ」と報告したらお役ごめんだ。帰ろう。そう考えて待ち構えていたが、襖が開いて出てきたのは灰色のつなぎの作業服を着た、無精髭を生やした熊のようなおじさんだった。
こんにちは、と慌てて自己主張してみる。おじさんはこの部屋にあるはずのない異物をちらりと横目で見ると、そのまま無視して、カーテンレールに引っかけてあった洗濯ハンガーから靴下をとりその場で穿き、汚れ物らしき少し臭う作業着を持って玄関の方へ出て行った。
「今、光太いないのよ」
そう言われて、ようやくはっきりと落胆した。精一杯の抵抗も虚しくなり、どんよりとした灰色の空気に自分が汚染されていくのを諦めた。
ねえ、おばさん、
木村君はいつからいないの?
いつ帰ってくるの?
学校に来てないのは知ってるの?
学校が始まってるのは知ってるの?
遠足の日、木村君がお弁当を持って来なかったのは何でなの?
埃を被った台所を見て思い出したことがある。昨年の遠足で、木村君はお弁当を忘れてきた。生徒の何人かは先生が木村君に何か渡していたのを見ていた筈だったけれど、自分のお弁当や、それを食べる相手とのあれこれで忙しく、気にも留めなかった。あの後から、木村君は学校を休みがちになった。行事の時には出てくることもあったけれど、思い返してみれば、お弁当が必要な行事の時には居なかった。
ふいに、ガチャリと玄関のドアが開けられる。さっきのおじさんが出て行く音だ。咄嗟に「私、帰ります。お邪魔しました」と立ち上がっていた。「そう?」と言ったおばさんは、どこかホッとしているように見えた。
せかせかと玄関に向かいながら、さり気なく室内に視線を走らせ、あるものを探す。居間には無い。台所のテーブルにも見当たらない。靴箱の上は物が溢れていて何も置けない。先程おじさんが持って出て、今は洗面所の前に無造作に投げ出された汚れ物の下から、それは少し顔を覗かせていた。さっき渡したプリントの束。
果たしてあれは、見られるのだろうか? そんな疑問が頭をもたげるが、気付かないふりをする。
「お邪魔しました」
玄関先でもう一度、頭を下げ、くるりと後ろを向いて歩き出す。振り返らずに歩く。早足になるのを堪えて歩く。今しがた見たものを振り切るように歩く。ただ、ただ、無心を意識して歩く。歩く。歩く。空が夕焼けで染まっている。一つ先の棟まで来た時、ふと、クリームシチューを煮る匂いが鼻をくすぐった。
「ねえ、お母さあん」
その家の子供だろうか、話しを聞いて欲しそうに甘えた声で何度も何度も繰り返す。お母さあん、お母さあん……。
堪えきれず、走り出していた。
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