こどもの奴隷

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「ただいま!」  勢い良くドアを開け、敢えて大きな声で言う。 「お帰りなさい。遅かったねえ」  台所から返ってくる呑気な声と、煮炊きする温かな音と匂い。身体中いっぱいに吸い込むと、頭の天辺から足の爪の先まで、こわばっていたものがゆっくりじんわり溶けて、色を取り戻していった。安堵してドアを閉め、ふと靴箱の上に目をやる。そこには何年か前のクリスマスにサンタクロースから貰ったドールハウスが置かれてあり、うさぎの家族がダイニングに勢揃いして小さなパンやシチューの並んだ食卓を囲んでいる。ホッとしたのも束の間、「きっとあの家にはサンタクロースも来ない」という考えが過り、振り切ったはずの灰色の空気が肺に入り込んで、また、きゅうっと胸が締め付けられ、息も絶え絶えで母親のもとに向かった。 「お母さん、夜ご飯、何?」 「おでん。学校はどうだった? 先生はどんな方? 新しいお友達はできそう? 勉強、遅れてなかった?」  きっとあの家ではこんな温かい矢継ぎ早の質問責めなど無い。 「何でクリームシチューじゃないのお!」  きっとあの家では、こんな理不尽な子供のわがままは無い。 「えええええ! 朝、おでん食べたいって言ってたじゃない」  きっとあの家では…… 「じゃあ、明日はシチューにしようか。何食べたいか言って貰えると、考える手間が省けて助かるわあ」  こんなに緩い許し合いなど無い。  母親のそばにぴったりと寄り添って、クラスで浮いてしまったこと、梨桜ちゃんと遥香ちゃんのこと、感じの良い先生だったことを次々と話しながら、取り戻していく。そして最後、付け足すように言った。 「あと、木村君ちにプリント届けに行った」 「光太君ね。また同じクラスなんて、縁があるわねえ。………光太君、何か困ってるようだったらお母さんに教えてね」 「え…」 「ううん。何でもないんだよ。ただ、ちょっとだけ気にしてあげてね」  お母さんは知っているのだ。木村君の家が何かおかしいこと。木村君が、たぶん、困っていること。 「あら? キーホルダーどうしたの? 失くしちゃった?」  あの灰色の人は、きっと、そんな些細なことに気付かない。目の前に居る女の子が誰かわからない人だもの。 「どうしたの? 元気ないねえ。……お母さん、蒸しケーキ作ったんだあ。ランドセル置いてきな。ご飯の前だけど一個食べちゃおうか。あなた、好きでしょう。大人っぽい味がするって」  出された珈琲色のふわふわしたお菓子の甘い匂いに鼻の奥がツンと潤んでしまい、喉の奥に込み上げる苦いものを唾を飲んで堪える。 「なんでお母さんは私のこと知ってるの?」  変な言葉でしてしまった質問に、お母さんは事も無げに「んー?」と小首を傾げた後、照れたような幸福そうな笑顔になって言い切った。 「だって、親は子どもの奴隷だもん。お姫様の心配をするのがお母さんの仕事なのよ」  わぁん、と泣き出していた。  お母さん、そうじゃない家もあったよ。今日、そこに行ってきたの。そう言いたいけれど、言わなかった。  私は怖かったのだ。我が家にも、今まで遊びに上がったどのお友達の家にもあった、無駄で、可愛らしく、愛情深い装飾が一つも見つけられず、心細かったのだ。あの家は、子どもの奴隷の居ない家だ。  自分は何を見たかったのだろう。何を暴きたかったのだろう。何故、それをしても良いと自惚れていたのだろう。他人の知られたくないかもしれない部分に、浮かれて、土足で踏み込んだ。  私の肩からランドセルを下ろし、背中を撫でる手は大きくて温かい。 「今日は変ねえ。久しぶりの学校で疲れちゃった? それとも、そんなにクリームシチューが食べたかったの? キーホルダー、また買おうね」  違う。  違う。  そんなんじゃない。  子供っぽい残酷な分別の無さに、涙が止まらないだけ。
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