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スキダッタバショ
黙ったままヒロキの背後に立つ。河を渡り、虫の声を携えた10月の風がヒロキのさらさらとした髪を揺らしている。
「優しい風が吹いていたから、君が来そうな気がしていたよ」
振り返ることなくヒロキが呟く。その隣に彼女が座る。広い河川敷の向こうに見える幅のある緩やかな水面には向こう岸の繁華街の光が写り込んでいる。最初にヒロキに出会ったのもこの場所であり、抱き合ったのもこの場所、厳密に言うとこの場所の下の葦原の中だったが。彼女にとっての良い事の全てがこの場所に窮屈に折り重なっていた。
中性的な外見と、なんだか詩的な語り口調が彼女を現実から少し離れた場所に連れて行ってくれた。理由は知らないが、彼女と同じよう夜に家を抜け出しては自転車で駆けていた時に彼女を見かけてヒロキから声を掛けたのが関係の始まりだった。相変わらず河面を見つめながら細い指で彼女の髪を撫でたり指に絡めてたりしている。高校生ぐらいなのだろうと思っていたが確認したことは無かった。余計な事を聞いて鬱陶しがられたりするのも怖かったからだ。しかし今夜はヒロキに話さなければと決心している。年齢を聞くよりももっと重たい話を。どうか素敵な言葉が返ってきますようにとお腹をさすりながら久しぶりに声を出す。
「伝えたいことがあるの」
ヒロキはフッと小さく息を吐いて目を細め微笑みながら月を見た。
「今夜本当の君に会えるような気がする」
彼女はスッと息を止めて葦原を見下ろした。
「お腹に赤ちゃんがいるの」
ヒロキの様な詩的な言葉ではなく、解釈を取り違えようのない真っ直ぐな言葉を放った。ヒロキの髪を撫でる指が止まる。彼女は眼だけを動かしてヒロキの顔を伺った。いつもの涼しげな表情ではなく、青ざめて目を見開いていた。
「誰の?」
真っ直ぐ向いたまま、いつもとは違う少し強い口調で返してきた。
「ヒロキの」
グキッと音がしそうな勢いでヒロキが彼女に顔を向けた。
「なぜ僕の子供だと言えるの!?」
早口で唾をとばしながらヒロキが言う。彼女がそういう関係を持ったのはヒロキだけだったので、自分がマリア様でない限り間違いなくヒロキとの子だったが、何だか急激にそれをヒロキに説明するのが面倒臭くなっていた。今、彼女の傍にいるのが女を孕ませて動揺するただのくだらない中二病を引きずっている高校生にしか見えなくなっていた。矢継ぎ早に、証拠がないだとか、僕は無精子症だからとか、彼女の告白からなるべく遠く離れようと必死だった。
「もう、わかった」
彼女はそう言いながら立ち上がり、お尻の埃をパンパンと払いながらヒロキに背を向けて歩きだす。背後からは依然として言い訳や誹謗が聞こえる。言わなければこんなことにはならなかったのだけれど、好きな場所は無くなってしまったけれど、言って良かったと思うことにした。気持ちや体重や存在全てが軽くなった気がしていた。
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