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失恋話1
学生時代から、厭な奴だった。
愛称、ビルは、ニュー・イングランド地方の名家の御曹司で、名門私立高校から東部名門八大学の一校に進学した正真正銘のヤッピーで、地域社会で敬われていた彼は、自らがこの国を動かしている、とさえ思っていたのだ。
WASP(White.Anglo Saxson.Protestant)と呼ばれる彼のような一部の白人が全てそうだ、という訳ではないが、好んで付き合いたい、と思える人種では、なかった。
傲慢で、厭味で、貧乏人など見下し、そのくせ、施しだけはきっちりと与える。
教会にも通っている。
そういう名家の御曹司としてのスタイルが、彼には生まれながらに染み付いていたのだ。
アメリカの多くの地方では、彼のような名家の御曹司が実力者として慕われるが、このニューヨークではそうは行かない。ここでは、本物の実力者でなければ、相手にされないのだ。
だが、まずいことに、アイビー・リーグで四年間の学部を終了し、大学院で修士号まで得た彼は、その本物の実力さえ持ち合わせていた。
ニューヨークで成功したのだ。
それでも、彼を慕う者はいなかった。
結果、彼は、故郷での人々に敬われる生活を望み、地元から自分の言うことを利くイエス・マンを呼び集めた。その取り巻きたちを側に置き、我が物顔で振る舞い始めたのだ。
今では、彼のことを『ビル』と親しみを込めて呼ぶ人間は、その取り巻きたちだけになっている。他の者は、彼の正式名、ウィリアムで呼び――いや、そのファースト・ネームで呼ばれている分には、まだいい。厭味のセンスを持つ人間なら、彼のラスト・ネームにサーの称号をつけて呼ぶだろう。もちろん、彼がその称号に相応しい人間だ、という意味ではなく、全く別の意味で。
ぼくは、彼をビルと呼ぶ取り巻きの一人だった。
従兄弟である、といえば、まだ体裁がいいが、実際には、大学へ行くために彼の父親に資金を援助してもらった、という、一歩下がらざるを得ない立場である。
ビルもぼくも、互いに今年、三十歳になる。
そんな折り、ビルから一本の電話がかかって来た。――いや、その話をする前に、彼のここ二月間の様子を付け加えて置かなければならないだろう。
ビルは、この二月近くの間、屋敷に取り巻きたちを呼び付けることもなく、仕事が終わればすぐにイースト・サイドに構える豪勢な屋敷に戻り、どこにも出歩くことはなかったのだ。
そして、十月三十一日の今日、彼は浴びるほどに酒を飲み、強かに酔った口調で、ぼくに電話をかけて来た。
「失恋したんだ……。すぐに来てくれないか」
行きたくなど、なかった。ハロウィンの今日、ぼくは近所の子供たちにお菓子をあげることを楽しみにしていたのだ。――いや、その後、子供たちに冷やかされながら、彼女と食事に行くことを。
だが、従兄弟ということもあり、彼の父親に恩もあり、加えて、イエスとしか言えない立場の人間であったため、ぼくは渋々、彼の屋敷へと足を運んだ。
失恋していい気味だ、と思うよりも、彼に恋人がいた、ということの方が驚きだった。彼のような傲慢な人間に、どこの誰が付き合っていたのだ、と思ったのだ。
だが、別にそれを聞きたいとは思っていなかった。少なくとも、今日は。
ぼくがビルの屋敷に着いたのは、それから三〇分後のことだった。
この狭いマンハッタンで、庭までついている立派な屋敷である。
ビルは、庭に面した大きな窓のある部屋の片隅で、蹲(うずくま)るように、ウイスキーを煽っていた。
部屋には、甘い匂いが充満している。香水、とかそんな気の利いたものの匂いではない。キャンディやチョコレート、クッキー、ケーキ……そんなお菓子の群れの、甘ったるい匂いである。
これから一〇〇人の子供がお菓子をねだりに来るのか、と思えるほどのお菓子の山は、そこら中に飾りつけられたカボチャや魔女の装飾と共に、賑やかな一日を演出している。
だが、その広い部屋の片隅で酒を煽るビルの姿は、空しい、としか言えないものであっただろう。
ぼくはとにかく窓へと向かい、酔いそうになるほどの匂いから逃れるために、大きく窓を開け放った。何しろ、甘ったるいお菓子の匂いと、ビルの煽る酒の匂いがごちゃまぜになっているのだから、気分が悪いこと、この上ない。
庭には、いつもガレージに入れてあるはずの、黒塗りの高級車が出してあった。誰かに磨かせておいたのか、いつも以上にピカピカである。きっと、恋人と出掛けるために用意していたのだろう。
ぼくは、ビルの前に身を屈め、時計を気にする素振りを見せながら、来たことだけを彼に告げた。
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