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失恋話4
「次の日、またそのガキに逢ったんだよ」
ぼくが戻ると、ビルは赤い目を隠すようにしながら、そう言った。
「おれの家の前で、キョロキョロしてるんだ。マズイことをしたな、って思ったよ。昨日親切にしてやったから、味をしめてまたタカリに来たんだ、と思ってさ。早くどこかへ行ってくれないかな、って思いながら、ブラインドの隙間から覗いていたんだ。でも、一向に帰る様子がなくてさ。三時間も同じ場所を行ったり来たりしているんだ。時々、門の前で立ち止まっては、自分の手のひらを眺めたりしてさ」
「手のひら?」
ぼくは、初めてビルの言葉に問い返した。
「ああ。――いや、本当は手のひらじゃないんだ。その小さい手に何かをもっているんだよ。後で判ったんだけど、それはおれの免許証でさ。それを届けに来てくれたんだ。それなのにおれは、そんな小さい子を三時間も外に放っておいて、早くいなくなって欲しい、ってブラインドの陰から眺めていたんだ。やっと家に入れてやったのは、あんまり腹が立って、追い払ってやろうと思った時さ。ズンズンと足を踏み鳴らして、思いっきり目を吊り上げて外に出て行ったんだ。そうしたら、そのガキは嬉しそうにおれを見上げて、
『これ』
って、その免許証を差し出して言うんだ。あの車を運転するのに必要なものだ、って解ってるんだよ。――いや、ホットドック・スタンドのおやじからそう聞いた、と言っていた。あのガキは字が読めないんだよ。まあ、まだ五つだからな。それで、そのおやじに読んでもらって、あの脳みその足りない馬鹿な頭で、おれの家の住所を一生懸命、覚えたんだ。きっと、あいつの頭だから、何回も繰り返し聞かなきゃ、ここの住所なんか覚えられなかったはずなんだ。字が読めないんだから、頭で覚えるしかないだろ? あのガキも偉いが、あのガキに繰り返し住所を読んでやったホットドック・スタンドのおやじも偉いよ。――そう思うだろ? とにかくおれは、免許証を受け取って、そのままガキを帰す訳にも行かなくて、家に入れてやったんだ。
『ジュースでも飲むか?』
ってな。何しろ、三時間も待っていたんだからな。あのガキも一言声をかければいいのに、黙ってうろついてるものだから、おれだって何の用があるのか判らなかったんだ。でも、考えてみれば、門についているインターホンは、あの子の身長じゃ届かないんだよ。ドアをノックして声をかけるには、門をくぐらなきゃいけない。あの子はずっと、それで悩んでいたんだ。あのちっこい脳みそで――。おれは何だかその子のことが無償に愛らしくなって、ジュースだけじゃなく、クッキーやチョコレートも出してやったんだ。来客用の高いやつだよ。あの子は瞬きすら忘れてそれを見ていたさ。――おれがお菓子を出してやるまでの間も、キョロキョロと部屋の中を見回して、
『すごいおうちだね。これ、ぜんぶ、ひとつのおうちなの?』
って、何度も訊くんだ。それから、自分の汚い服と見比べて、恥ずかしそうにうつむいてさ。解ってるんだよ。自分が貧乏人で、こんな家には相応しくない人間なんだってことが。あの子は、おれが思ってるほど、馬鹿な子供じゃなかったんだ。身分違いを思い知らされた上に、きれいなグラスに入ったジュースや、ピカピカの皿に並べられた高級なクッキーやチョコレートが出て来たものだから、どうしていいのか解らなくなってたんだよ。――その様子を見ながら、おれが何を考えていたか解るか? おれは貧乏人の子に生まれなくて良かった、って考えてたんだよ。だって、そうだろ? 他人の家に招かれて、マナーも知らないんじゃ、恥をかくだけだ。だけど、貧乏人の子に生まれたら、こんな家に招待される機会もないんだよな。何が恥なのかも、きっと一生知らないままなんだ。その子も、目の前に並ぶジュースやお菓子を見て、これ食べてもいいのかな、って顔で、悩んでるんだ。おれとお菓子を交互に見つめてさ。おれが一つうなずいてやると、その子は両手でお菓子をつかんで食べ始めたよ。ジュースは手を使わないんだ。ストローが差してあったからさ。クッキーを食べては、そのストローのところまで口を持って行って、吸い付くんだ。口の中のお菓子をまだ全部飲み込んでもいないのに、両手にはもう次のお菓子を持っている。あんまり浅ましくて、みっともなくて、惨めで、汚くて、下品で……いつもなら眉を顰めるんだけど、おれ……その子が可哀想で、可哀想で……顔を背けることしか出来なかったんだ。可愛い子なんだよ。素直で、優しくて……。それなのに、何でそんな汚い格好をして、おなかを空かせてなきゃならないんだ、って……。おれ、その子にもっと何かをしてやりたくなって……」
ここで、ぼくもビルから視線を逸らすことになった。ビルの目から、ぽろぽろと大きな涙が零れたのだ。
もちろん、ビルが、その子のことを、ガキと呼ばなくなったことにも気づいていた。
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