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失恋話5
「おれ……昨日、その子に貼ってやった絆創膏が汚れているのを見て、新しいのに替えてやらなきゃ、って思ったんだ。――信じられるか? その子の母親だって、その絆創膏には気づいたはずなんだ。それなのに、絆創膏を替えてやってもいないんだよ。普通、風呂に入ったら駄目になるだろう? 風呂に入れてもらっていないんだよ。だからおれは、その子を風呂に入れてやろうと思って、その子がお菓子を食べ終わるのを待って、そう言ったんだ。途中でお菓子を取り上げたら可哀想だろ? だから、最後まで食べ終わるのを待って――。そうしたら、その子、何て言ったと思う?
『ごめんね。きたない?』
って、恥ずかしそうに、おれに訊くんだ。――おれはどう応えてやれば良かったんだ? 何て言ってやれば良かったんだ? おれが苦笑いをすると、その子は自分で服を脱ぎ始めたよ。不器用でさ。ボタンもうまく外せなきゃ、袖もうまく抜けないんだ。――でも、そんなことは関係ない。その子は、おれに憫(あわ)れみを受けている、って知りながら、それを屈辱とも思わずに、汚い格好でいちゃいけない、と思って、素直に風呂に入ると言ったんだ。強い子なんだよ……。おれは、服を脱ぐのを手伝ってやろうと思ったけど、ついに最後まで手が出せなかった。それが悔しくて、情けなくて……。だから、風呂では必ず、体を洗うのを手伝ってやろう、って決めて、汚れた服を洗濯機に放り込んで、その子を風呂に入れてやったんだ。その子は、バス・ルームでも珍しそうにキョロキョロとしていたよ。これが風呂だとは信じられない、って顔でさ。おれは優越感を感じたよ。その子が珍しそうに辺りを見回し、おれに何かを言う度に、優越感を感じていたんだ。そんな小さい子供を相手に……。だから、おれ、その自分の心をごまかすために、その子に話しかけてやった。おれは優しい善人なんだ、って顔でさ。
『家では、いつもお母さんと一緒に入るのかい?』
って。そうしたらその子は困ったように曖昧に笑って、ただ首を横に振ったよ。家族のことは話したがらないんだ。おれとは大違いだよ。おれは小さい頃から両親が自慢で、家柄が自慢で、その話をするのが嫌だ、って思ったことなんか一度もなかった。――でも、その子は母親を嫌っていた訳じゃないんだ。母親をかばっていたんだ。おれに悪口を言われないように――。小さくても、男は男なんだよな。ちゃんと女をかばうんだ……」
一呼吸おき、ビルはウイスキーを喉に流し込んだ。その手の中には、涙を拭いたハンカチがある。
「おれは、『また遊びにおいで』ってその子に言ってやったよ。その子は嬉しそうにうなずいて、休日や夜に遊びに来るようになったんだ」
「夜?」
「ああ。あの子の母親は、そんな時間に子供が出歩いていても何も言わないんだよ。普通、まだやっと五つの子供が、他所の家でお菓子をもらって、風呂にまで入れてもらって、洗濯したての服を着て帰って来たら、変だと思うだろう? 子供を問い詰めて、おれのことを訊き出すはずだ。常識がある親なら、礼の一つか、文句の一つを言いに来る。――いや、別に礼や文句を言って欲しくてやった訳じゃないけどさ。子供が夜、どこに行っているのか心配になって、様子を見に来るくらい、親なら当然のことだろう? だけど、来ないんだよ。何日経っても、親は一向に顔を見せない。おかしいと思ったよ。その子は親に捨てられて、行く場所がなくて、おれのところへ来ているんじゃないか、って――。別におれはそれでも良かったんだ。アル中の父親や、ヒステリックな母親がいるくらいなら、みなしごの方がずっといい。おれは、その子がみなしごなら、引き取って面倒を見てやってもいいと思っていたんだ。本当に可愛い子なんだよ。――それで、おれはその子の後をつけて、両親のことを確かめてみようと思ったんだ。いつも、その子は、
『ひとりで、かえれる』
って言って、タカタカと地下鉄の駅の方へと歩いて行くから、おれはその子がどこに住んでいるのかも知らなかったんだ」
そう言って、ビルは、グイ、っとグラスを傾けた。が、中が空であったために、ボトルからウイスキーを注ぎ直し、もう一度グラスを傾けた。それから、少し重く目を暝り、
「その子、どこに住んでいたと思う?」
と、ぼくに訊いた。
「さあ……」
「おれには信じられなかったよ。その子は売春宿に入って行ったんだ」
「売春宿?」
その言葉には、ぼくも、驚いた。
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