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失恋話6
「ああ。母親が娼婦なんだよ。だから、夜、客を取っている間は、その子が何をしていてもわからないんだ。知らない男のところへ出掛けていても――。父親なんか、もちろんいないさ。――いや、いても誰が父親なのか判らない。いるのは、ガラの悪いヒモだけさ。おれは悔しくて、悔しくて……。何でその子の母親が娼婦なんだ、って。その子はもっと幸せになってもいい子だろう、って――。母親に逢ってみようと思ったよ。子供を育てる気がないのなら、おれがその子を育ててやる、って。そう言おうと思ったんだ。でも、その日は逢えなかった。たとえ娼婦でも、その子が母親のことを慕っているのなら、おれが口を出すことじゃないだろう?―― いや、本当は、そんなことを言いに行く勇気がなかっただけかも知れない。乱暴なヒモや、売春業者が出て来たら、殴り倒されるかも知れないんだ。怖くて当然だろ? 誰だって、そんなことになんか関わりたくもない。――でも、何日か経って、その子が青アザを作って、おれの家に来たんだ。顔じゃないんだ。服に隠れて見えない場所なんだよ。そのアザを偶然見つけて――。今までにもきっと、そういうことがあったはずなんだ。おれが気づかなかっただけで、その子は母親のヒモに殴られていたに違いないんだ。――おれは、その子の母親に逢いに行ったよ。薄汚い売春宿に。その子がいないのを確かめてから――。どんな女が出て来たと思う? おれは、あの子の母親だから、すごい美人に違いない、って思ってたんだ。流れるような金髪と、ガラス細工のような青い瞳をした――。それが、出て来た女は、病人みたいに青白い顔をした、少しも冴えない女なんだ。これっぽっちも美人じゃなくて、くたびれ切っていて。まだ二十代か三十代のはずなんだけど、窶れ切った老婆みたいな雰囲気の……。ふざけるなっ、て叫びそうになったよ。子供が憧れるくらいきれいな母親なら、あの子にもそれは自慢になるだろうと思っていたんだ。それが……それが、あんな女が母親で……。おれはとてつもなく腹が立って……体中が震え出したよ。あの子の母親は、こんな女じゃない。おれはこんな女に頼むべきじゃない。そう心の中で繰り返していた。だから、何も言う気にならなかったんだ。――解るだろう? おれがその女に文句を言ったら、その女があの子の母親だ、って認めたことになるんだ。おれにはどうしても、その女があの子の母親だと認めてやることは出来なかった。――もし、その女がもっとケバくて、派手で、子供と正反対の贅沢な格好をしていれば、おれはその場でケンカを始めていたさ。殴り倒してでもあの子を攫って行った。その女だって、喜んでおれにあの子を渡したはずなんだ。だけど、そうじゃなかったんだ……。年中、ヒモに金をせびられて、生気も何も残っていないような無気力な女だったんだ……」
そう言って、ビルはその日を思い起こすように、こぶしを握った。
「おれは、その母親のことが憎らしくて、憎らしくて、その日から、仕事もロクに手がつかなくなったよ。人と話をしていても、いつの間にかその女のことを考えて、上の空になっているんだ。そして、ついに仕事に支障を来した。――覚えているだろう? 先方が怒って帰った日のことだ」
「ああ」
「おれは、全てをぶち壊したい気分になっていた。何で、あんな女のために、自分まで仕事でしくじらなけりゃならないんだ、って――。その日の夜も、あの子が来たよ。門はいつも、押せば開くようにしてあったんだ。それで、あの子はあの窓から――庭に面したその窓から、ひょこ、っと顔を出して、また来ちゃった、みたいな顔をして、照れながらおれを見ているんだ。だけど、おれはその子の相手をしてやる気分じゃなくて、その子が来たことには気づいていたけど、気づかないフリをして、ずっと無視を続けていたんだ。あの子は、戸惑うような顔をしていたよ。それでも帰りもせずに、おれが窓を開けるのを、じっと待っているんだ。窓を叩きもせずに、じっと――。車に触らなかったのと同じように、どんなに触りたくても我慢をするんだよ。あの母親との生活で、我慢をすることを覚えているんだ。おれはまた悔しくなって……。何で、その子はあんな母親の言うことを素直に利くんだ、って……。自分だけいい子ヅラして、そんなに気分がいいのか、って――。外が寒くなって来たから、仕方なく家に入れてやったよ。でも、いつもみたいにジュースやお菓子を出してやる気にはならなかった。――だって、そうだろ? おれがこんなに優しくしてやってるのに、その子は母親の方がいいんだ。何もしてくれない母親の方が――。そう思うとやり切れなかったんだよ。おれの方が、その子に好かれて当然なんだ。その子の方から、おれとずっと一緒にいたい、と言うのが当然なんだ。それなのに……その子は、そんなことなんか一言も言わないんだよ。こんな家に住みたい、とも、おれみたいに何でも持っている人間になりたい、とも……。あの子に取って、ここは時間潰しの場所でしかないんだ。母親に言われた通り、客がいる間はどこかで時間を潰して来て、また母親の元に戻って行くんだ。おれは、口も利いてやらなかったよ。おれから何か言うのは腹が立ったんだ。その子は居心地悪そうに、ちょこんと椅子に座っていたさ。帰るに帰れない状況なんだ。おれはまた、何て馬鹿なガキなんだ、って思ったよ。居心地が悪けりゃ、帰ればいいんだ。おれを悪者にしてしまえばいいことなんだよ。それが出来ないのなら、
『ここにいると迷惑?』
とか訊けばいいんだ。そうしたらおれは、
『ここにいたいのか?』
って訊いてやるさ。それなのに……一時間も黙って座ってるんだ。
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