涙雨

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 徳川家茂。  文武両道、風流を解した人物とされる。朝廷からの信頼も厚く、将軍となってからは粉骨砕身、政局に立ち向かった。だが第二次長州征伐にて、大軍を率いて入城した大阪城で突然の病に倒れる。彼の急死により、もとより近代兵器で後れをとっていた幕府軍は、戦線から撤退せざるをえなかったのだ。  その自称家茂が竹子の前にいる。曰く、「傷を負って動けぬ娘を、一人で夜山に放置できん」  見縊るか、と竹子が噛みつけば、「そうではなく、余の気持ちの問題だ」と彼は引かない。  女を理由にはするが、竹子の知る男たちと違って家茂の言葉に嫌味はない。未だ動けぬ竹子を嘲笑する気配もないのだ。木に寄り掛かったまま、竹子は家茂を観察した。頭は黄と白の毛に覆われた虎そのもの、牙は鋭く、目は肉食獣のそれで、周りが暗いせいか瞳孔が丸く広がっている。そこに猫のような愛嬌を覚えてしまって、竹子は慌てて首を振った。  「化物よ、お前が家茂公だというのなら、祀られているのはこちらの寛永寺ではなく、増上寺の方ではないのか」  化物はあっさり肯いた。  「然り。つい先日あちらで小火騒動があっただろう。今、江戸には薩長の間諜が相当数入り込んでいる。その一派が余の墓の周りに火を放ったのだ」  最近、素行の悪い者が増えたと市中で噂になっている。治安の悪化はそのまま江戸を治める幕府へ不満がいく。幕府がなくなることが決定してもなお、薩長は攻勢を緩めるつもりがないのだ。  家茂などはわかりやすく幕府の旗頭であり、攘夷派の敵であった。  「余はその火で目覚めさせられた…この姿でな。火付け犯どもは追い払えたが、連中もまだ手を緩めまい。増上寺が被害にあったのならば、寛永寺にもやってくるはずと、こうして交互に見回りをしている。先日もこちらで一人追い払ってやったばかりだ」  「まさか化け物に襲われたという者は、間者であったか」  「余が真達羅大将の姿を模しているのは、菩提寺にこれまで参拝した人々が残した、徳川への畏敬の念が残っているからだろうと…増上寺の高僧は教えてくれた。ならば余は徳川として、かつての将軍として、江戸で奴らの好き勝手を許すわけにはいかぬ」  「ならばこのような場所に留まらず、今からでも長州に出向いて神罰を落とすべきではないか」  「いまさら神罰一つ落としたところで世の流れまでは変えられぬ」  そこには突き放すような響きがあった。幕府存続のために誰よりも働いたのは、生前の家茂であるはずなのに。  「さて、女烈士殿。どうやらお待ちかねの賊が現れたようだ。  そろそろ動けるようになったのではないか? なら少々手を貸していただけると助かるのだが」  「む?」  「化物退治はうまくいかなかったようだが、お前は幕府に仇なす者を成敗しに来たとみえる。その忠義やよし、実力も先ほど見せてもらった。  ちと相手の数が多いようでもある。これ以上悪さができぬよう、徹底的に懲らしめてやろうと思うのだが…どうか?」    賊、というのは増上寺に火を放った一派か。幕府に仇なす者が山を登ってくると知って、竹子の体が震えた。武者震いである。  「よかろう。お前の言う通り、私はこの地を土足で汚す者を許すつもりはない。お前の正体が本当はなにであれ、共に幕敵と戦うというのならば我が剣を預けよう」    家茂の虎の顔が一瞬きょとんと…しかしすぐにニヤリと笑った。  「その意気やよし! 頼りにしているぞ、女烈士…いや、中野竹子!」
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