涙雨

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 明治元年八月十四日。場所は会津、坂下法界寺。  慶応四年一月に始まった鳥羽伏見の戦いより、新政府軍は破竹の勢いで旧幕府軍を追い詰めた。京での敗北、大阪城からの撤退、江戸に迫る薩長土に対し、会津藩主松平容保は江戸城への登城禁止を言い渡され、会津へと臣下を連れて帰郷した。無論、中野家もそれに従っている。江戸城はその後、無血開城したと聞く。  会津は徹底抗戦の構えだ。竹子は母や妹を含む藩士の妻子らと婦女隊を結成し、藩主容保の息女照姫を守護するために坂下までやってきた。だが照姫は坂下にはおらず、ならば戦場に出て、一人でも多くの敵を屠らんと決意を固めたのである。明日、竹子らは出陣する。  婦女隊が戦場に出たいと願い出た時、やはり男たちは嘲笑した。端から戦力にならぬと決めつけ、こちらの訴えを歯牙にもかけぬ。それでも食いついてようやく得た参戦許可だった。  夜空を見上げて、竹子が思い出すのは家茂のことだ。彼がこの場に居たら、戦いたいと願う己らにどんな言葉をかけてくれただろうか。  ふと、寺の庭木。松の影から竹子を呼ぶ声がした。脳を痺れさせるような美声は間違いなく家茂のものである。夜闇の中で目を凝らせば、松木の向こうにこんもり凝る影が見えた。まるで小山が蠢いているように見える。  「家茂様?」  「上野が彰義隊と新政府軍の戦場となったのでな。行くあてをなくしていたが…気になってここまで来てしまった」  「まあ」  「竹子殿、この戦は駄目だ。お前たちの忠義を疑うわけではないが、向こうの最新兵器の前では紙のようなもの。ここでお前たちが戦う意味がない」  まあ。と竹子はもう一度呟いた。  「いいえ、幕府が倒れようとも慶喜公が生きておられます。かの方を再度将軍として担ぎ上げ、勝ち戦を続ければ多くの者が幕府の威光を思い出すでしょう」  「幕府の威光など!」  影が、激しくその体を震わせた。  「竹子殿。余は嘘をついていた。この姿は誠に真達羅大将の姿などでない。  幕府の威光など…人々の崇拝など、とうに地に堕ちている」  家茂は語る。以前彼が話してくれた、増上寺の高僧のことだ。  増上寺の放火犯を取り押さえた家茂は、己の姿を水鏡に映して絶叫した。その声を聞き付けてやってきた高僧は、蘇った家茂を見て腰を抜かしたという。化物だと、はっきり口にしたと。それでも高僧であるがゆえに家茂の正体を悟ったのだろう…震えながらも彼は言った。    「その御姿は真達羅大将の姿を歪に映したものでしょう。菩提寺であるこの地には、これまで参拝した多くの者の、徳川への信仰が残っております。ですがそれも過去のもの。崇拝なき神威に意味はなく、ゆえにその姿は異形へと堕ちたのです。  もし今も人々の崇拝があったのならば、あなたは正しく真達羅大将として顕現されたでしょうに」  影が、松の向こうからその全身を表した。それはもう人の姿を全く残していない。上半身は虎、下半身は馬という歪な体は、前後の均整がとれておらず、まるで芋虫のように地面を這い進む。背に生えた翼はあちこち折れ曲がり、骨が露出している。  幕府が失われ、人々から急速に失われた崇拝が家茂をこのような姿にしたのか。  「徳川のために戦う意味はない。意味のない敗北は惨めだ。お前までそのような想いをせずともよい」    言葉に滲む悔しさは、かつての長州征伐失敗があるからか。  姿形は変わっても、その声だけは真摯に竹子と向き合ってくれた、あの日の家茂のままだ。  「以前、家茂様がおっしゃられたことを覚えていますか?  たとえ勝てずとも、信念あるときに戦えと」  竹子は今でも、あの夜が忘れられない。妹の優子ですら認めてくれなかった竹子の在り方。  あの日初めて、竹子は人から己の武を見事だと称賛された。それを頼りにするとまで言われた。  そしてそれを言ってくれたのは、竹子が崇めるべき徳川の将軍であった男なのだ。  仕えるべきいと高きお方。――会津が将軍のために命を賭すというのならば、竹子は家茂のためならば、己が身全てを捧げても惜しくはない。  「私は会津の民、徳川の臣です。  ならばそれこそが我が信念、たとえあなた様でも私の戦いの邪魔はさせませぬ」  逃げれば竹子は生きられるだろう。だがそれは屈辱だ。竹子はここで新政府軍と戦うと決めた。かつて行き場をなくした身の内の炎が、家茂のためと信念を抱いて燃え盛っている。  薙刀を構え、家茂に突き出す。今の家茂の姿では、かつてのように刀をふるい、竹子を倒すことはできないだろう。  「お前が」と、家茂は言う。  「増上寺の高僧ですら、余の姿に最後は逃げた。  お前だけが…余を真に家茂として認めてくれたのだ」  そう言い残して、家茂の姿が闇へと消えた。あとには静寂があるばかり。  竹子は小さく呟く。  「私にとっても、あなた様だけでありました」  ――ああ、家茂様。どのような姿であれ、あなた様こそが我が主君。あなた様が崇拝が失せたというのならば、だから化物に堕ちるというのならば…ここに一人、あなたを信じる者がおります。私がたった一人でも、あなた様の忠臣となりましょう。  
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