涙雨

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 草木も眠る丑三つ時、闇に包まれた江戸市中。場所は上野の東叡山。その山中を進む影が一つ。頭上の梢に遮られ、辺りは月明りすらまともに届かぬというのに、その足取りにはまったく淀みがない。道着に襷掛け、頭に鉢巻き、手に薙刀。物々しい恰好をした娘だ。  名を中野竹子、歳は十九。のちに会津戦争で婦女隊の一員として戦った女傑である。  東叡山は歴代将軍の菩提寺たる、寛永寺が建立された由緒正しき山だ。地元では上野の御山として人々の崇拝を一心に集めている。そんな場所を夜間に武装して踏み入るなど不敬極まる行為であろう。しかも竹子は山道ではなく、わざわざ藪の中を進んでいる。  最近、東叡山に恐ろしい化物がでるという。実際に襲われた者もいるというので、それを知った竹子は激怒した。――将軍安眠の地を汚す者があろうとは。  先日、もう一つの菩提寺たる増上寺で小火騒ぎもあった。放火の疑いがあるらしく、口さがない者など、徳川の威光も地に落ちたものだと嘲笑う。  竹子は我慢ならない。父が江戸詰職であるから竹子もこの地で育ったが、心は立派な会津人のつもりである、会津藩は歴代将軍から信任厚い。藩祖は家康公の実孫、保科正之。元より繋がりは強く、幕府の為なら命を賭けられると皆が豪語する。  竹子は許せぬ。幕府の権威は二度目の長州征伐が失敗に終わったことで大きく揺らいだ。世の中が、幕府は絶対ではないのだと知ってしまった。  ならば今こそ会津総出で立ち上がり、最後の一人に至るまで幕敵と戦い続けるべきではないか。しかし実際はだらだらと日ばかりが過ぎ、大政奉還などという話まで聞こえてきた。幕府がなくなるのだと知ったとき。竹子は薙刀を手に藩邸を飛び出したのだ。そのまま長州に乗り込む覚悟だったが、江戸を出る前に妹と母に捕まってしまった。  男たちはそんな竹子に冷ややかな目を向けて、言い放つ。「女ごとき、政のなんたるかがわかるものか」と。  今、竹子の身の内には炎がある。守るべき幕府が危ういときに、なぜ誰も立ち上がらないのか。立ち上がることを許してくれないのか。忸怩たる想いが炎を焚けらせ、行き場を失って噂の化け物へと向けられていた。ある意味八つ当たりである。  東叡山の夜の見回りは、今日で五日目になる。未だ噂の化け物は現れず、いい加減竹子も焦れていた。夜回りの件は妹の優子にだけ伝えてある。今日部屋を出たときの、妹が竹子に向けた顔が脳裏に浮かぶ。あれは諦めと呆れの表情だ。長州行きこそ折れたものの、基本竹子は一度決めたことを曲げない。妹はそれをよく知っていた。妹が竹子を素直に見送ったのは、決してその行動を認めたからではないのである。  どうして誰も、竹子の行動を理解してくれないのだろう。なにも間違ったことはしていない筈なのに。  「やれ、見目麗しい娘が毎夜大層な様でやってくる。さて、いかな理由か?」  突然、頭上から声が降ってきた。耳を撫でて脳を痺れさせるような美声である。驚き見上げる竹子の目が見開かれた。僅かな月明りを背負って、異形が宙を浮いていていた。背中に鷲の翼、頭は虎、人の体を覆う中華風の甲冑。虎の口から、からからと人の笑い声が発せられる。声からして男。  ようやく現状を把握した竹子は薙刀を構えた。虎頭有翼、これが噂の化け物か。    「我こそは会津藩士中野平内が娘、竹子。この地を汚す化物め、今すぐ降りて私と勝負せよ!」  化物の声が痺れるような美声なら、竹子のそれは総身を震わせるような力強さがある。化物の口から感嘆が洩れた。そうして翼をはためかせると、竹子と同じ地面に足をつける。その時にはもう、竹子は踏み込んでいた。鋭い呼気を吐き、下段に構えた薙刀が掬い上げるように化物の顎を狙う。化物は体を逸らしてそれを悠々避けると、腰の太刀を抜いた。太刀の背が薙刀の柄を叩き、竹子の腕が痺れる。相手の剛腕を察して、竹子は一端飛び退って距離を取った。  「余は十四代将軍、徳川家茂。この狼藉、理解してのものであろうな」  「不敬者!」  怒声と共に、竹子が化物の懐に飛び込む。全身の体重を乗せた突きを受け止めたのは太刀の鞘。鉄と鉄がぶつかる甲高い音が山に反響する。瞬間、竹子は鳩尾に鈍い痛みを感じた。化物の拳が捩じり込まれているのを視界にいれると同時に、竹子の意識が遠のく。  「類を見ぬ女烈士よ、見事である」  男から武を褒められたのは初めてだった。
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