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「三浦君、お疲れ」
警察署を出ようとしたところで、事務の吉田さんから声をかけられた。二十代後半の吉田さんはすらりとした女性で魅力的な顔だちをしている。
「やっと帰れますよ」
交番勤務の交替が遅れ、署に戻ってからも書類の提出や報告などで遅くなり、すでに昼を過ぎていた。いまから非番で明日は休み。交番勤務の当番は仮眠こそあれ、二十四時間勤務だ。疲労はピークに達している。目をつぶるとすぐにでも眠れそうだ。
「明日は休みでしょ。夜、ごはん食べに行かない?」
むさくるしい署内で吉田さんは輝いて見える。でも、
「せっかくの誘いですけど、すいません」
ぎこちなく断った。
「そっか。三浦君、婚約してるんだっけ。よ、純情男子」
吉田さんは歳の割に古臭いことを言って笑うと手を振った。
僕には学生時代からつき合っている彼女がいる。結婚するつもりだから、周りには婚約していると言ってある。
車に乗り込む。学生時代から乗るポンコツだ。
エンジンを掛けると車体をブルブル震わせ、思い出したようにオーディオから女性歌手の歌声を流しはじめた。学生時代に婚約者の由里が買ったアルバムで耳にタコができるほど聴いているやつだ。
シートベルトをしたところで携帯電話に着信が入った。書類になにか不備があったかと、びくびくしながら画面を見ると由里の母からだった。
複雑な心境で通話ボタンをタップする。
「正人さん。いま大丈夫?」
どこか思い詰めたように沈んだ声に聞こえた。
「大丈夫ですよ。それよりなにかあったんですか?」
疲れていたが、努めて明るい声で答えた。
「こういう話は電話のほうがいいと思って。最後まで、なにも言わずに聞いてもらえる」
「は? あ、はい」
嫌な予感が胸をよぎる。
「昨日、主人と話したの。あれから三年経つし、いつまでも正人さんを縛るわけにはいかないって。だからもう由里のことは……」
由里の母が声を詰まらせる。電話の向こうで泣いているみたいで、僕の胸を締めつけた。なにか言わなければと焦るのに言葉が浮かばない。由里はいま実家の近くの病院に入院している。
「ごめんなさい。わたしたちも辛いの。だからなにも言わすに、あの子のことは忘れて。あなたには自由になってもらいたい。それがわたしたちの本音だから」
やはりなにも言えなかった。ただ黙って首を横に振った。
三年前、大学生だった由里が事件に巻き込まれたのは僕のせいだ。由里の両親はそのことを知らない。僕だけが知る事実。隠すつもりはなかった。だけど、言えなかった。
事件のあと僕は警察官になった。配属先は学生時代を過ごした県中部の地域を管轄する警察署だった。由里の入院する病院は県西部にあり、病院まで距離があるので頻繁には会えない。だけど僕はどんなに疲れていても休みの日には彼女に会いに行く。それは僕が彼女に隠しごとをしていた報いであり、自らに課せた使命でもあった。
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