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ずっと、やっと。
二◯三号室。この古びた木造アパート『織夏コーポ』の彼女の部屋はきっちり綺麗に整理整頓されており、その隅に二、三置かれている小ぶりのダンボールでさえ、なにかのアンティークかのような雰囲気を醸し出している。
「これ、どうぞ」
伊噴さんがホットココアの注がれた可愛らしいマグカップを、俺の前にコト……と差し出してくれた。
「いただきます」
湯気に溶けたカカオの香りが鼻に流れ込んでくる。
「……ええと、さっきのことなんですけど」
さっきのこと、というのがあのゴスロリファッションを指しているのは間違いないだろう。
ちなみにいまの彼女は、薄ピンクのカーディガンに無地の黒スカートという……いわゆる“普通の”格好をしている。
「あれは別に、私服とかいうワケじゃなくて。全然、いつもはあんなカッコしてないですし……」
それはそうだろうな。そんなことは分かっていますよ。普段からアレなら、ただのやべーやつじゃないか。
「今日はちょっと、イベントがあって……」
そう言いながら、彼女はリビングのすぐ真横にあるドアを、ゆっくりと開いていく。
その扉の向こう──おそらく伊噴さんの自室と思われる部屋には、無数のコスプレ衣装とノートパソコン……そして、手前から右側に位置する壁一面にはクロマキーシートが貼られているのが見えた。圧巻の光景である。
「だからその、今日はホントに偶然! たまたま、イベントの時間が電車にギリギリで……あんな服装で外に出ちゃったんです」
いやいや、そもそもあの格好で電車に乗ったのか? と、俺が半ば呆気にとられていると、彼女が少し寂しそうに眉を下げた。
「……やっぱり、引きました?」
「いいえ、全然。むしろ尊敬しますよ」
これは本音である。
「実は俺、もう、いい年齢なんですけど……小説家を目指していて。でもなんて言うか、どこかで冷めているっていうか、諦めているんですね。だからこうやって……本気で好きなことをやれているのって素敵だと思います」
自分でもよくわからない内に、ペラペラと喋りだしてしまっていた。彼女の方こそ、俺に引いているんじゃないだろうか?
そんなことを考えていると──突然、グッと手を握られる。
「…………やっと出会えた!」
「えっ」
彼女は強く握ったその両手をパッと離し、改まってこちらを見つめる。
「コスプレとか、小説家とか、声優になりたいとか……。そういうのって、中高生までの特権みたいなところ、あるじゃないですか。こうして大人になっちゃうと『いつまで夢見てんの?』って」
たしかに……そうだな。
「好きなものを好きって言えない雰囲気っていうか……なんだろう、大人が青春しちゃいけないの? バカやっちゃいけないの? そういうモヤモヤがあるんですよ」
その気持ちは、よくわかる。
「ちょっと前まで高校生やってて……なんか。手を伸ばせば届きそうだけど、やっぱり届かなくて。でもまだ『あの頃は若かったなあ』って言う踏ん切りもつかないし……上手く言えないけど、虚しいんですよ。毎日、毎日が」
そうだそうだ。そうなんだよ!
「だから私……いま、運命みたいなものを感じてるんです。きっとあなたも、同じ気持ちだと思うから……」
「……そうですね。俺たちみたいな人間は、夢を、幻想を追い続けている寂しい負け犬です。だけど、そんな犬にも餌を食べ、散歩をする権利はあるはずだ」
思わず、彼女の肩に摑みかかる。
「俺たち……もう一回、青春してみませんか? そしてお互いに、夢を叶えませんか?」
伊噴 くろろが目を輝かせ、俺の手を再び、強く握った。
「こちらこそよろしくお願いします……濱出 尚斗さん」
名前──知っててくれていたのか。
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