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じょうきょう。
あれから──私たちは倉井さんの紹介でいくつか読み切りを描かせてもらい、地方在住の漫画家として順風満帆な生活を送っていた。
大学も無事、ストレートで卒業。こうなると両親も文句は言えない……というか、もとが親バカなこともあっていまではサインや直筆イラストを執拗にねだってくる始末だ。
えるとの上京と同棲も決定。本格的に“連載作家”としてデビューを目指すことになり──その出発前夜。
「S市で過ごす最後の夜……沁みるねぇ……」
「いやいや。今生の別れじゃないんだからさ」
カラオケボックスの“飲み歌い放題コース”で6時間。歌って騒いで、お互いに夢を語り明かした。
「……ていうかね、うちの親! えると同棲する、って言ったらさあ…………ホント馬鹿!」
「ヤバッ! でも同棲──っていうより“東京”って、もっとこう……キラキラしたイメージあったじゃん? それが実際は、家賃4万2千円のボロアパートだもん……泣けるぅ」
「ツグタ荘ね。私は好きだけどなぁ」
卒業前に一度、ふたりで東京まで物件を探しに行ったことがある。
一栄館までのアクセスや、日当たり、ゴキブリが出ない2階の部屋──と、私たちの条件をすべて満たす物件はなかなか見つからず……最後の最後にたどり着いたのが、風呂ナシ・トイレ共用、“出る”とウワサの『ツグタ荘』であった。
えるはかなり渋っていたけど…………私にとっては幽霊なんかより、ゴキブリの方がよっぽどこわい。そこだけはどうしても譲れなかった。
「──そりゃあ穂花はそうだろうねえ」
あ。いま、バカにされた気がする。
「えるはゴキブリの恐ろしさを知らないのっ! 黒だよ、羽生えてんだよ、未知の生物だよ!?」
「じゃあ穂花も知らないんじゃん」
「……うるさい、噛まれろ!」
「ゴキブリって噛むの?」
とにかく……えるも私も、明日からの東京生活を目前に浮かれきっていた。
なにも知らず、ただ、期待に胸を躍らせて──。
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