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初夜の密約
「愛する人がいる。だから君との夫婦関係は形ばかりのものとしたい」
初夜の褥の前に立つジュディにそう告げたのは、夫になったばかりのレナード・キャンプスだった。
突然の発言に、ジュディは絶句したまま二の句が継げないでいる。
そんな彼女にレナードは、ため息をつきたい気持ちを押し殺しながら、説明を始めた。
二人はいわゆる政略結婚で、家の利害が優先されての婚姻である。
そのため二人は愛情どころか、お互いのことをよく知らないままに結婚してしまった。
しかもレナードには当時恋人がいた。アカデミー時代からゆっくりと愛を育んでいたミランダ・アッカーソンという女性である。
卒業後、レナードは実家の商会を継ぐためにアカデミーを去ったが、彼女はそのまま学校に残り、現在は他国で二年間の留学生活を送っている。
そして二年後に彼女が帰国した暁には、結婚しようと約束までしていた。
ところが留学期間が残り一年というときになって、レナードに縁談が舞い込んだ。
相手は男爵令嬢のジュディ。
平民と貴族。身分違いではあるものの、近頃では身分の差に関係なく結婚する者も増えているため、レナードとジュディの結婚もさして問題はない。
しかしレナードには恋人がいるのだ。
結婚など到底許容できるものではない。
彼はこの縁談を進めている父親のザカリーに対して、猛抗議を行った。
しかし父はレナードの反対を一蹴する。
国の西部で代々、庶民相手に細々と小間物屋を営んできたキャンプス家は、ザカリーの代になって急激に利益を上げるようになり、今では都でも名の知れた商会となった。
今では小間物以外にも、衣服や靴、バッグなど、幅広く扱っており、金持ちの庶民や下級貴族をターゲットにした値の張る品も取り扱うようになったのである。
商会では職人を囲い込み、オリジナルブランドの商品を数多く展開。それが大当たりして、勢いは増すばかり。
ザカリーはこの機に乗じて事業を拡大し、商会をもっともっと大きな物にしたいと考えていたのである。
そのためには下級貴族相手で留まっている場合ではない。
上級貴族を顧客にしなければ。
そう考えるザカリーだったが、ただの平民が上級貴族に取り入れるわけもなく。
そういったコネや繋がりを持たないザカリーが目を付けたのが、ジュディの生家であるフォレット男爵家だったのだ。
ジュディの家は貴族とは名ばかりの貧乏暮らし。
その日の食事にはありつけるものの、贅沢は一切できない。
家にはジュディを筆頭に年ごろの娘が三人いるが、ドレスを誂えることもできないため、夜会やお茶会にはほとんど出席したことがないという有様だ。
しかしフォレット家の主家は中央政府の高官で、西部の貴族たちとも多く繋がりを持っている。
そんな家の傍流に当たる娘と婚姻を果たし、その名をちらつかせれば、どんな家でも門戸を開くに違いないだろう。
ザカリーの野望を果たすのに、これほど適した家はないと思われた。
フォレット男爵家の惨めな暮らしぶりを知ったザカリーは、多額の援助金をちらつかせて、やや強引に縁談を推し進めた。
結果フォレット男爵はそれに頷くしかなく、ジュディはレナードと結婚することになったのである。
貴族側が了承した婚姻である。平民風情が断れるはずもなく。
しかも「あの家と縁付けば新しい顧客を開拓できるし、商会をさらに大きくするチャンスなんだぞ」と説き伏せられたら、レナードも首肯するしかない。
しかし受け入れられるのは『婚姻』という形ばかり。
夫婦生活に関してはどんなにジュディに迫られようと、絶対に拒否しようと決意していた。
なぜならレナードの恋人であるミランダはプライドが高く悋気深い性格で、今回の縁談を報されて相当激怒していたからだ。
隣国から届いた文には別れるとまで書かれており、商会の未来のためだと説き伏せたレナードに、彼女は一つの条件を出した。
それこそが、レナードがジュディに宣言した言葉……つまり、形ばかりの夫婦になるというものだった。
手紙には荒々しい文字で、二人きりになることも夫婦らしい生活を送ることも禁じるし、ましてや同衾するなどもってのほかと書かれてあり、「それを破ったら結婚の約束は破棄する」という言葉で締められていた。
むろんレナードはその提案を受け入れた。
なぜなら恋人以外の女性と添い遂げるつもりなどなかったからだ。
ミランダは凡庸な容姿のジュディとは違い、大輪の薔薇のごとき艶やかな美貌の女性。
才もあり、アカデミーでは常に注目を受ける有名人。
そんな女性を恋人に持てて、どれだけ鼻が高かったことか。
ミランダを捨ててまで、平凡なジュディを選ぶ気などさらさらない。
けれど、それをそのまま口にするのは憚られる。
だからジュディには、最愛の女性が既にいて彼女しか愛せない、とだけ説明をした。
そんなことをオブラートに包み、申し訳なさそうな顔で説明するレナードに、ジュディは「わかりました」と呟いた。
「しかし君とてこのままでは辛かろう。提案を受け入れてくれたお礼に、離婚した際には君たち一家が一生満足に暮らせるだけの慰謝料を払おうじゃないか」
今のキャンプス家であれば、貧乏貴族を数十年養えるくらいの蓄えはあるし、その程度の損失はこれから先どんどん稼いで補填すればいいだけのこと。
いい条件だと思わないかい……レナードがジュディにそう囁く。
長いながい沈黙の後、ジュディは「それで、いいです」と了承した。
「勝手ばかり言ってすまない」
「いいえ……私にはレナードさまのお気持ちが、痛いほどわかりますから……」
「俺の気持ちが……では、まさか君も?」
ジュディは無言でコクリ頷いた。
それはジュディに恋人がいたということに他ならない。
けれど彼女はなんの抵抗もなく、この縁談を受け入れた。
恐らく援助金が目的だったのだろう。それほどジュディの生家は困窮していたということか。
恋よりも金を選ぶとは浅ましい女だ……とレナードは心の中で毒付いた。
「俺はもう自室に戻るけど、君はここで寝てくれ。ただし明日には別の部屋を用意するから、今後はそちらで生活してほしい」
夫婦の寝室を使っていいのはミランダだけ。
ジュディではない。
ここはキャンプス家の離れで、母屋を出てしまえば最後、ここで何をしているかは両親の与り知るところではない。
『白い結婚』も難なく行えるだろう。
家政婦にバレないよう、離れの掃除はジュディに任せたいと言うと、彼女は静かに頷いた。
この部屋に運び込んだ荷物は全て別の部屋に移動させるよう伝えて、レナードが自室へ戻ろうとすると、それをジュディが引き留めた。
「仮初の夫婦であることは了承しました。ですが何もせずに生きていくのは心苦しいです。我が家の家訓は『働かざる者、食うべからず』。ですから一年間は店の若女将として、裏方の仕事をお手伝いさせてください」
まるで平民のような家訓だな……と吹き出しそうになったものの、悪い提案ではない。
最近売り出した商品の売り上げが好調すぎて、とにかく人手が足りないのだ。
レナードはジュディの願いを聞き届けることにした。
「何から何まで、本当にすまない」
「お気になさらずに……全ては愛する旦那さまのためですもの。私、頑張りますわ」
いじらしく微笑むジュディに、レナードの心がほんの少しだけ跳ねた。
愛する旦那とはつまり、自分のことに他ならない。
まさかこんな短時間で自分に惚れたとは……けれど決して悪い気はしない。
むしろ貴族女性を虜にした己が誇らしいとさえ思った。
思わず顔がにやけそうになって、慌てて気を引き締める。
そして。
「本当に、すまない」
レナードは再び謝罪の言葉を口にすると、ジュディに向かって深々と頭を下げた。
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