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 わたくしが紫以菜(しいな)を初めてお見かけしたときのことをお話しします。  空が春霞にけぶる、ある晴れた日のことでした。どこからやってきたのか、コンクリートの地面には、桜の花びらが、模様のようにちらほらと張り付いています。  わたくしは、お屋敷の裏の、いつもの散歩道を歩いていました。  ふと、いつもは通らない路地に入ってみようと思いつきました。そこに綺麗な蝶が飛んでいたとか、猫がそこに入っていったような気がしたとか、そのような理由だったと思いますが、はっきりとは覚えていません。  ここ一帯に二十一年間暮らしてきて、初めて入る道でした。お屋敷のすぐ近くにこんな場所があったのかと、新鮮な気持ちになり、入るほどに、わたくしの好奇心は刺激されていきました。  人通りは少なく、ときどきスクーターが横切ったり、漫ろに歩くご老人がいたりするだけです。  何度か角を折れると、まるで迷路に迷い込んだような気がいたします。  不安になり、元来た道を振り返ろうとしたときでした。  視界の片隅に、小さなひと影があったのが気になりました。  それで、目をはっきりとそちらに遣ったとき、わたくしの世界は、不意にきらきらと輝き出したのです。  十歳かそこらでしょうか。幼気な少女が、そこに、驚いたような表情をして、こちらを見て立っていたのです。  真っ直ぐ伸びた、艶のあるロングの黒髪。涼しげな目に乗る睫毛は長く、開かれた口は、ぷりっとした桃色の唇で縁取られています。肌は新雪のように肌理細かく、耳は桜貝のように可愛い。その顔は、わたくしの目を捉えて離しませんでした。  美しい。  その瞬間、時の流れは緩やかになり、まるでソーダ水の中にビーズ玉を落としたときのように、世界がゆっくりと、そして確実に輝きを帯びていくように思えました。  いかばかりか、そのまま見惚れていたでしょうか。  わたくしは、足元に大きなゴールデンレトリバーがやってきたことで、我に返りました。  ん? 犬?  すると、 「ミズーリ!」  その少女が、犬の名と思われる名を叫び、わたくしのほうへ駆け寄ってきました。そして、大きな声を出したことを恥じ入るように、頬に手を当てました。 「ごめんね! この子がね、シーナが捕まえた蜥蜴にちょっかいを出して、逃しちゃったの。こらっ」  と、犬の額を軽く叩きます。 「蜥蜴……ですか?」  わたくしは、まだ彼女の姿に見惚れたままでした。気分がぽおっとします。シーナというのが、この少女の名前なのでしょうか。 「そう。せっかく捕まえて、これから遊ぼうとしてたのに、ミズーリが籠をひっくり返しちゃったの」  少女は、「ねえ? 悪い子」と、また犬の額を叩きました。  少し変わった趣味ですが、わたくしにはそれはどうでもよく、話す声にも、煌めく生命力を感じるようだと思いながら見ていました。  その光景は、わたくしにとって、癒しであり、救いであるように思えました。  これが、わたくしと紫以菜の初めての出会いのお話。    * * * 「お嬢さま。お嬢さま」  自室の籐椅子でうとうととしていると、お手伝いの山岡の声で目を覚ましました。 「……ごめんなさい。どうしました?」  寝ぼけ眼で答えます。真夏とはいえ、午前の時間帯は、窓を開けると風が気持ちよく、うたた寝をするのにちょうどいいのです。 「ドアを開けっ放しでいらっしゃるものですから、失礼ながら入らせていただきました」 「いいのよ、それくらい。で、なに? また失敗したケーキを食べさせてくれるっていうの?」 「いえ。志良山(しらやま)さまがお越しです」  その名を聞いて、わたくしは、暗澹とした気持ちになりました。 「会わなきゃならない?」 「わざわざお越しなのですから、もちろんです。それに、今日いらっしゃることは一昨日から決まっていたことではありませんか」 「そうね。今、客間?」 「はい。お父さまもご一緒に」  重い足取りで母屋に行き、客間に入ると、テーブルを挟んで、お父さまと志良山さんがそれぞれ、ソファに掛けて向かい合っていました。 「笙子さん。ご無沙汰しています。お元気でしたか?」  志良山さんは明るい笑顔で言います。この笑顔にはなんの罪もないのですが、その屈託のなさが、逆にこちらの心に刺さります。  わたくしはなぜか、紫以菜に会いたいな、と無意識に思いました。 「笙子さん?」  志良山さんは、わたくしの顔を覗き込むように見つめています。 「どうした、笙子。最近ぼうっとして」と、お父さま。 「だって、最近卒論が忙しいし、昨日も一日中図書館に篭りっきりだったんだから。先生にも注意されっぱなしで……あら、ごめんなさい」  わたくしは志良山さんの存在を無視したように話していたようで、それを詫び、お父さまの隣のソファに掛けました。 「いえ。お忙しい中、お時間を作っていただいてすみません」 「いつまで経ってもよそよそしいな、君たちは。いずれ結婚する仲なんだぞ。わかってるのか?」 ——結婚  という言葉が軽々しく出たことで、わたくしは居心地が悪くなりました。その言葉を聞く度に、サイズオーバーの服を着ているような、妙な感じを覚えるのです。  志良山さんを見ると、照れて伏し目になっていました。  わたくしは、このひとと、いずれ結婚することになるのです。  山岡が音もなく入ってきて、ケーキと紅茶を三人分置き、出てゆきました。 「それで、雄一くん。最近はどうだい。仕事は慣れたかい?」  お父さまが紅茶のカップを片手に、志良山さんに聞きました。 「はい。ひととおりのことは覚えたといったところです。しかし、ここのところ残業続きで、だいぶ弱ってますけどね」 「まだまだこれからだぞ。頼んだよ」  わたくしの家、月崎家は、代々紡績業を営む会社を世襲で繋いできました。〈月崎紡〉がそれです。しかし、今現在、子はわたくししかいません。そこで、白羽の矢が立ったのが志良山さんでした。婿に取って、会社を継がせようということなのです。  彼、志良山雄一さんは、今年の四月から新社会人として、現在〈月崎紡〉のグループ会社にお勤めです。その会社の社長さまは、志良山さんのお父さま。お互いのお父さま同士の繋がりで、この縁談が上がっているのです。  四年前、将来の結婚相手として志良山さんを紹介されたときは、わたくしは十八歳。結婚などということになんの現実感ももてずにいました。そのまま、だらだらと、付かず離れずの関係を続けていて、それは今も変わることはありません。  しかし、親同士が決めた相手となんて、今どき、そんなことってあるでしょうか? 大学の同期にも育ちのいい子は多くいますが、許嫁が決まっているなどという方とは会ったことがありません。みんな、ふつうに恋愛をし、だれだれとしあわせになりたい、などと言っています。  かといって、わたくしは恋愛というものにも現実感をもてずにいました。 「笙子さん、先ほど、卒論のことを話していましたが、進捗はどうですか?」  志良山さんが聞きました。 「ええ。夏休み明けに、教授方の前で発表があります。マイペースに進めていたものですから、まだこんな段階なのかと、このあいだも担当教官に叱られたところですの」 「そんな焦ることはありませんよ。僕なんて、最終発表前夜になって、大きな間違いを指摘されて、徹夜で書き直したんですから」  志良山さんは、はっはっは、と哄笑します。お父さまも笑っています。 「そうでしたの。わたくしもそうなるのではないかと、心配になってきましたわ」 「笙子さんは大丈夫です。着実にやるひとですから、そんなことにはなりません」 「ならよろしいのですけれど……」  わたくしは、笑顔とも無表情ともいえない顔で、この時間を過ごすだけでした。  談話は三十分ほどで終わりました。わたくしと志良山さんとの間で話が盛り上がったというわけでもなく、お互いのお父さま同士の話などに終始し、わたくしにとっては、なんの収穫も進展もない談話でした。  なにをしにいらっしゃったのかしら、あの人は。
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