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一. ちょっぴりとくべつな部屋
「笙子! こっちこっち!」
夏休み中だというのに、卒論について担当教官との面談があった、ある暑い日の午後。家路に着くと、お屋敷の門前で、紫以菜が手を振って、わたくしの名前を呼んでいました。
真っ赤な襟なしシャツに、白の綿のショートパンツを履いたその姿は、夏空の下にぴったりです。
「紫以菜!!」
わたくしは思わず叫んで、駆け寄りました。
「笙子、驚き過ぎ。まるでシーナが行方不明だったみたいじゃない」
ばかばかしい、とでもいうような言い方です。
だって、ちょうど紫以菜に会いたいと思っていたところだったんですもの。
もちろん、そんなことを言っては気持ち悪がられるのがオチですし、言いません。代わりに、にっこり。
「もう学校は終わり?」
「ええ。また怒られてしまいましたわ。いつまでこうして怒られ続けなきゃいけないのでしょう……」
「笙子は頑張ってるんだよ。頑張ってない人は落ち込んだりしないもの」
こうして、十二歳の少女に慰められることが常です。情けないと思いながらも、妙にそれが心地よかったりするのです。
「さ、では、わたくしのお部屋に参りましょうか」
「うん!」
紫以菜は、瞳をきらりと輝かせています。この笑顔で、わたくしは一気にノックアウト。やられてしまうのです。
「笙子のお部屋って、シーナ好きよ」
「ええ、存じておりますわ」
「シーナ、笙子のお部屋にいるときだけは、ちょっぴりとくべつな気分に浸れるの!」
月崎家のお屋敷は、伝統的な二階建ての日本家屋(母屋)に、これも二階建ての洋館が渡り廊下で繋がっており、さらに奥に茶室と、使用人たちの居室があるという造りになっています。それが、大きな池と大きなクスノキのある日本庭園を取り囲んでいます。
わたくしのお部屋は、洋館の二階に置いていただいています。一階はほとんど使われない、かたちばかりの応接室で、二階もわたくしのお部屋以外には、事実上の物置のような部屋があるだけなので、実質、わたくしが洋館を独り占めしているのです。そこで過ごす時間が、わたくしにとっても、紫以菜にとっても「ちょっぴりとくべつ」なひとときなのです。
扉を開けると、紫以菜が、まっ先にわたくしのベッドに飛び込みました。
「相変わらずふかふかね!」
紫以菜は、このふかふかのベッドが大好きで、わけは「おうちのお布団はお煎餅みたいだから」だそうです。
そこにあぐらをかいてから、
「笙子、そつろんはうまくいってないの?」
と言いました。
「そうね。次の発表、うまくいくかしら」
「シーナは全くちんぷんかんぷんだから、それができてるのか、できてないのか、全然わからないけどさ。とにかく頑張ってよ」
言って、バタンと仰向けに倒れます。
わたくしの専攻はアイルランド文学です。イェイツの詩の日本語訳の変遷について、卒論を書くことになっています。しかし、メジャーな分野ゆえに、先行研究があまりに多いものですから、わたくしはどこでオリジナリティを出せばいいのか、発表の迫った今でも、なにもかも手探りの状態なのです。この話を紫以菜にしたところで詮ないことですが。
「ありがとう。そう言われてみると、元気が出ますわ」
「シーナにできるのは、そうやって声をかけることくらいだからね」
「ありがとう。紫以菜は今日の学校、どうでした?」
話題を変えると、
「席替え! 学期初めだからね」
紫以菜はすかさず、体を起こして言いました。
「席替えですね。わたくしも席替えは大好きでした。テンション上がっちゃいますよね」
「うん。真千代ちゃんの隣になったの」
真千代ちゃんは、紫以菜の数少ない友達の一人です。
「ほんとう。それはよかったじゃない」
「通路を挟んでの隣だけどね」
「逆隣は?」
「うんとね。凛人くん」
目を伏せるようにして言いました。クラスでいちばんモテるという凛人くんということで、意識しているのでしょうか。そういえば「なんとなく気をもたれているような気がするんだよね」と漏らしていた記憶があります。
考えてみれば、わたくしの小学校時代といえば、席替えで隣の席が男子であろうが、どんな人気者であろうが、ほとんど気にしたことはなかったように思います。休み時間には席を離れて外に遊びに出かけるような子であれば、それでよかったのです。心置きなく一人で読書に集中できますから。
「そういえば、その後、大丈夫? 亜蘭ちゃんの嫌がらせは」
紫以菜はここ数週間、クラスの女子たちに突然一斉に無視されるという、いじめのようなことを受けていたのです。それを仕切っていたのが亜蘭ちゃんでした。
「ぜんぜん大丈夫。過ぎるのを待っていればいいだけだもの。シーナの番は終わって、もう次の子にいってるから」
「わたくしもそうでしたわ。あれって順番に回ってくるのですよね。そのときは永遠に続くのかとも思える苦痛でしたが。過ぎるのを待っていればいい、だなんて、紫以菜は相変わらず達観してらっしゃるのね」
「そうよ、たっかんよ」
偉そうに言いますが、おそらく「達観」の意味をよくわかっていないのでしょう。
「そういえばね、今度担任の先生が産休に入るんだって」
「へえ、それはおめでたいではないですか」
「うん、おめでたいね。それでね、その代わりに来ることになった先生が、若い男のひとで、それがなかなかのイケメンなんだよね〜」
「あら、それはよろしかったではないですか」
「って、クラスの女子が騒いでる。ばかみたいにね」
「あら、紫以菜、イケメンは興味ない?」
「うーん、よくわかんない。少なくとも、あの新担任にはとくべつなにかを感じるわけではないかなあ」
わたくしはそれを聞いて、少し安心しましたが、なぜ安心しているのかと、自分を疑うような気持ちになりました。それで、ふーん、とだけ言いました。
「みんな早速、その新担任と写真撮ったりしてたよ。スマホでね。うちの学校はスマホ禁止なのにさ」
「小六の女子なんて、そんなものですわ」
「そんなものなのかな」
「ええ。紫以菜は好きな男の子はいないの?」
紫以菜は、考えてから、
「わかんない。クラスの男子には、なにかとくべつな感情を持ったことはないなあ」
「そうですか……」
「周りの子たちは、だれだれが好きだとか、付き合ってるとか、そういう話はしてるけどさ」
「凛人くんがモテるのでしょう?」
「そうだね。シーナが隣の席になったことで、他の女子に軽く嫌味も言われたよ」紫以菜は、両手を挙げて、やれやれという仕草をしました。「シーナは全然悪くないのにさ」
「ばからしいわね。懐かしくもありますがね」
「笙子もそんなだったの?」
「わたくしは、そういうことは、あまり関わったことはありませんでしたわ。今とは時代も違いますしね」
「そうかな?」
「ええ。今はスマホがありますでしょう? SNSでのいじめなんかもあるとお聞きしてますわ」
「うん、あるある。ある、みたい。シーナは持ってないから詳しくはわからないけど」
「陰湿だわ」
「いじめは昔から陰湿でしょ?」
確かにそうかもしれません。
「そういえば、紫以菜はスマホは持ってないわよね。持ちたいと思わないの?」
「別に。今は欲しいとは思わないな。あんなの、あってもなくても、日常生活には困らないもん。むしろ、害悪だね」
「害悪だなんていい方……紫以菜らしいですが」
「そうだよ。いじめだってそうだし、こないだ亜蘭ちゃんがね、SNSで知り合った大学生と……」
それからしばらく、スマホの弊害(害悪)についての話が続き、テストの連続満点記録が途絶えてしまったことや、現担任のお子さまに付く予定の名前が変だということ、いじめの新たな標的になんとかして声をかけようと思っていることなど、だらだらと喋っていると、いつの間にか外が薄暗くなっていました。
「いけない。紫以菜、もう帰らなくっちゃ」
時計を見ると、午後六時を過ぎていました。
「ほんとだー。もうこんな時間」
「お父さまにも申しわけないわ」
「それは気にしないで大丈夫だから。いつものことでしょ?」
「そうですが……まあ、今日はここらへんで」
「うん。ありがとね! 久々に会えて嬉しかったよ!」
二人で洋館から渡り廊下に出ると、お手伝いの山岡と鉢合わせました。
「あら、紫以菜ちゃん。もうお帰り? また来てね」と山岡。
「うん! 山岡さん、またね!」
子供の元気さと、大人の礼儀のよさを兼ね備えた、女のお手本のような挨拶です。
「もう暗くなっていますし、わたくし、紫以菜のお宅までお送りすることにしますわ」
山岡にそう言って、紫以菜と共にお屋敷を出ました。
「ありがとね。笙子」
紫以菜が手を差し出したので、わたくしもそれを取りました。
東の空には、欠けた月がひとつ、掛かっていました。その脇には、金星が座っています。
「紫以菜、今日もありがとね」
「また遊びたいな」
紫以菜は、繋いだ手を前後に振って言いました。
「もちろん」
わたくしも、その手をもっと大きく振って言います。
「笙子、なんだか、いい顔してるよ」
紫以菜が不意にそう言いました。
「あら、そう? 紫以菜のおかげで元気になったのかも」
「あら。それはよろしかったわ」
わたくしの真似をします。
そう話しているうちに、紫以菜のお宅には、すぐに着きます。紫以菜が門扉を開けて、
「ただいまー!」
と叫びながら玄関に入ります。それに続くと、廊下の奥からお父さまがいらっしゃいました。
「笙子ちゃん、いつも悪いね。相手してもらって」
「いえいえ。いつもわたくしのほうが、こんな時間まで付き合っていただいているのですから。ですから、こんな小さい子を遅くまで家に帰さないなんて、恐縮ですの」
「いいんだよ。そのほうが僕も都合がいいから。ほら、この子、どうせ家にいてもなにもすることがないでしょ」
紫以菜はそれを黙って聞いています。
紫以菜の家は、お父さまと、ゴールデンレトリバーのミズーリとの二人+一匹暮らし。お父さまは自宅でデザインの仕事をするフリーランスなので、一日中家にいらっしゃいます。そして、家事のほとんどをお父さまがしてくれるのです。
家にいても、仕事か家事のお父さまと二人でいるというのも、わたくしには想像できませんが、紫以菜にとっては退屈なことなのかしれません。
「あ、ミズーリ!」
紫以菜が叫びました。廊下の奥からミズーリが走ってきたのです。ミズーリは、紫以菜の目の前までやってきて、おすわりをしました。
ハア、ハア、と息を切るミズーリ。
「いい子だね〜。お留守番してたの〜」
紫以菜は、ミズーリの頭をくしゃくしゃと撫でまわしています。
「ささ。ご飯、もうすぐできるから。お入り」
お父さまが言いました。
「わかったー。はらぺこー」
紫以菜は三和土を上がり、駆け足で廊下を抜けて、食卓に消えました。と思ったら、ひょこっと顔を出して、ばいばい、と小さく手を振って、また消えました。
「笙子ちゃん、いつもありがとう。またよろしくね」とお父さま。
「はい。わたくしも、紫以菜ちゃんには元気をいただいているんですもの」
礼を言い合ってから、わたくしは紫以菜のお宅を出ました。
わたくしは、お屋敷までの帰り道、傍らにだれもいないことを思いながら、歩いていました。
さっきまでわたくしの片側を温めてくれていた、紫以菜という存在。
その空っぽを感じながら歩く夏の夜は、こころなしか、しんとして、なんとなくものたりないものでした。
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