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二. 紫、以、菜
わたくしと紫以菜は、ミズーリを連れて、お屋敷から坂を下りた所にある、広い河原を歩いていました。
ここには大きな石橋が架かっていて、お屋敷と駅を結ぶ、ちょうど中間あたりにあります。
今年の残暑はしつこく、今日は日照りもあり、午前中から気温は既に三〇度を超えているように思えます。河原のひとたちも、うだるような表情をしています。ミズーリも、ハッハッと口で速い息をしています。
「笙子はさ、なんでシーナとお友達になろうと思ったの?」
ミズーリに引っ張られまいと、リードを強く引きながら、紫以菜が聞きました。
紫以菜と正式に(?)お友達になったのは、この河原でした。
お屋敷の裏の路地で、紫以菜を初めてお見かけしたとき、わたくしは、間がもたなくなって、その場を立ち去っていたのです。
しかし、それからしばらく「あの少女」の面影が頭から消えることはありませんでした。そのときの光景が、鮮明なイメージとして、脳裏に焼き付いているようでした。
当時は、問題なく四年次に進級し、三年次のときから所属していたゼミで卒論を書くということが決まった時期でした。
また、卒業後の就職先も、お父さまの斡旋で決まっていました。
慌ただしく過ぎる学生生活。約束された未来。
そんな中にあって、それをなんとなく憂鬱に思っていた時期でした。
そんなとき、ふと脳裏に「あの少女」の面影がよぎります。その度に、わたくしの胸は、綿のようにふわっと軽くなるのでした。
どうしても気になってしまい、お見かけした日の翌週、また同じ場所に行ってみました。
そのときは、いませんでした。
そんなものだろうとは思いながら、やはり落胆したことを覚えています。
あれは幻だったのかしら? あの美しさからすると、春の日が見せた、儚い夢だったとさえ思えます。
それ以降、お宅には行っていません。
しかし、わたくしの頭の中は「あの少女」がでいっぱいになっていきます。
これが、あこがれ、という感情なのでしょうか。
自分でも、妙なことを考えているのは存じております。学生とはいえ大人が、小さな女の子のことで頭がいっぱいになるなんて、可笑しなことです。でも当時は(今もそうですが)、その是非は頭には浮かびませんでした。ぼんやりと、しかし強烈に、わたくしの心は「あの少女」に奪われていたのです。
さらにその翌週でした。
再度、紫以菜をお見かけしたのが、この河原なのです。
駅からお屋敷に向かう道、大きな石橋を渡りかけたときでした。対岸に「あの少女」がいるのが見えたのです。
いえ、正確には、見えたというよりは、わたくしの頭が察知した、といったほうが適切かもしれません。まず頭で「あの少女」がいると無意識に感じ取り、それを目で確認したとでもいいましょうか。
少女は一人、自分と同じくらいの大きさの犬と一緒に、芝生にちょこんと座っています。あのときの犬です。「あの少女」に違いありません。
わたくしは、気がついたら、早足で石橋を渡っていました。
そして少女に近づくに連れて、歩調を緩めます。
その背後に立ったときは、自分でも可笑しなくらい、心臓がバクバクと音をたてていたのを覚えています。
どうしてでしょう? なぜ、大人の女が、十歳かそれくらいの少女にどきどきしているのでしょうか。
しかし、そうして戸惑っていたのも、実際は数秒だっと思います。
「あの!」
気づいたら、そう声に出していました。
真後ろから声をかけられた少女と犬は、びくっと肩を怒らせて振り向きます。
やはり「あの少女」だと確信しました。
ソーダ水の中を、色とりどりのビーズ玉が泳いでいます。透明に煌めく風景が、わたくしの目の前に広がりました。
「あの!!」
同じ言葉を発してしまいました。少女は、目を丸くして、こちらを覗き込んでいます。知り合いだったろうか? と訝しんでいるようでした。
「はい」と少女。
「はい。こんにちは」と言うわたくし。
「こんにちは」
少女は苦笑いしています。
わたくしも照れ笑いするしかなく、「あの!!」のあとをなにで繋げばいいのか、さっぱりわかりません。なにも考えずに声をかけたのですから。少女も戸惑っているようです。
わたくしは、にこっとひと笑い。
「ええと……あなたは?」
たまりかねたのか、少女が言いました。
「わたくし、月崎笙子と申します! 坂の上の、矢ノ町に住んでおります! 以前、あなたをお見かけしたことがございます」
場違いな自己紹介をしてしまいました。
「はあ……」
きょとんとする少女。
「ええ……ごめんなさい。実は、二週間ほど前、あなたのお宅の前でお会いしたことがございます」
少女は、ややあってから、
「わかった! あのときミズーリが駆け寄ったひとだね!」
と声を上げました。
「はい、そうでございますぅっ!」
声が上ずってしまいました。
「あのとき、逃げていったひとだ!」
「はい! ええ……お恥ずかしい限りでございます」
それを聞いて、少女は、ふふ、と笑い出しました。
「なあに、その喋り方?」
「はい、申しわけありません!」
そう言ってから、どうしてわたくしは謝っているのだろうと考えたら、自分でも可笑しくなって、ぷっと笑ってしまいました。
「お姉さん、面白いね」
「お恥ずかしいですわ。あ……お犬、可愛いですね」
あのときのゴールデンレトリバーが少女の隣で休んでいます。
「ありがとう。この子はね、ミズーリっていうの」
「ミズーリ。素敵な名前ですわね」
「うん。アメリカの州の名前なんだけど、パパがジャズっていう音楽が好きで、なんとかパーカーっていうサックスのひともそこで活躍したんだって。それでこの子に名付けたの」
「まあ、素敵ですわね」
「ほんと、なあにその喋り方? どこかのお嬢さまみたい」
少女はまた笑います。
わたくしは「ええ……」と言って黙ってしまいました。
「……あ、待って。月崎さんって、聞いたことある! シーナのおうちの近くにある、あのでっかいお屋敷ね!」
「はい、そうでございます」
「ほんとうにお嬢さまってそういう喋り方をするんだ。なんだか変なの!」笑ってから、「あ、わたし、紫以菜っていいます。紫に、以上の以に、菜っ葉の菜」
「紫、以、菜。よいお名前ですわね。わたくし、月崎笙子と申します」
「うん、それさっき聞いたよ」
紫以菜はそう言って、また笑いました。
わたくしも、可笑しくなって笑ってしまいました。
「あの! 今後もわたくしと遊んでいただけませんか?」
盛り上がった勢いで、気がついたらそう言っていました。やばい、と思いましたが、
「うん、いいよ! 面白そうだもん!」
すかさず返事をしてくれました。
「ええ。いつでも遊びにいらして!」
「え、嬉しいなあ! 月崎さんのお屋敷に上がれるなんて! なにがあるんだろう?」
「面白いものなんて、なんにもございませんわ。つまらない池と、大きな木があるだけですの。でも、わたくしのお部屋のある洋館は自慢ですのよ」
「へえ、ようかん! 行ってみたいな!」
「きっとあなたも喜びますわ」
こうして、わたくしと紫以菜の交流が始まったのでした。
川沿いに並ぶ桜はもう散っていて、代わりに葉桜の濃い緑が、きらきらと初夏の予感を感じさせていました。
あまりにも平和で、またそれも笑ってしまいたくなるほどでした。
「なんででしょうね」
紫以菜の「なんでシーナと友達になろうと思ったの?」という問いの答えを、歩きながら考えていました。まさか、美しさに心を奪われたとも言えず、どうしたものかと戸惑っていたのです。
「さあ……」
「え、理由はないの?」
「そんなことはございませんわ! ただ……」
「ただ?」
「ただ、理由がないのが理由、とでもいいましょうか」
そう言うと、数瞬の沈黙が訪れました。そして、立ち止まって、
ぷっ
紫以菜が吹き出します。可笑しかったかしら?
「なあに、それ? なんかかっこいいじゃん!」
「かっこいいでしょうか……?」
皮肉かとも思いましたが、
「笙子はそいうところがあるから、親しみが持てるんだよな〜」
と言うので、満更でもありません。
「でしょう? 直感ですの」
「ちょっかん?」
「そうですわ」
「直感ね。やっぱり笙子はかっこいいな。笙子は直感で生きるひとだ」
そう言って、また歩き出しました。ミズーリのリードを引っ張りながら、口笛を吹いています。
「そうでもありませんわよ。わたくしだって、それなりに考えて生きていますわ」
弁解はしたくなります。
「そうかな? でも実際、シーナは小学生なわけだよ? 十二歳。笙子は大学生。なんだか、今思うと、可笑しな話だよね」
「そうかもしれませんわね」
確かにそのとおりですが、そのような疑問は、既にわたくしの中にはありません。
「シーナの友達だって、同年代の子ばっかりだよ」
「そ、それは申しわけありませんわ。紫以菜の、小学生としての貴重な時間を、わたくしなんかに使わせてしまってますわね」
「いや、いいよ。ていうか、シーナは感謝してるの。もともと、いつも一緒に遊ぶような友達もいないし、家にいても退屈するだけだから」
「そうですわね。わたくしと遊べば、退屈も紛れますわね」
「退屈するからってわけじゃないよ? シーナは笙子といるのが、楽しい。面白い。シーナもひとりっ子だから、お姉さんも欲しかったし。出会いは奇妙だったけど、今は一緒にいて、なんだか落ち着くんだよなあ……あ、ミズーリ!」
ミズーリが、他の散歩中の犬に飛びかかろうとしたので、紫以菜が叫びました。慌ててリードを引き寄せます。
「でも、笙子だって、大学のお友達はいるでしょ? シーナなんかといて楽しいの?」
「もちろんですわ。あのとき、思い切って声をかけてよかったと思っていますの」
わたくしは本心を言いました。
「そう。やっぱり変なひとだ」
「よく言われますわ。では、紫以菜はなんで、わたくしと一緒にいてくれることにしたのですか?」
なんとなく引っかかっていたことを口にしました。洋館で釣ったのは確かにそうですが、それだけが理由なのかと、疑問に思っていたのです。
「それは……あ、あそこで休まない? 日陰がある」
紫以菜は、少し先にある四阿を指して言いました。そこには、お婆さまが一人、涼をとっているだけでした。
わたくしたちは、お婆さまに並ぶように、そこのベンチに腰を下ろしました。少しは暑さも和らぎ、ミズーリも気持ちよさそうです。
「まあ、シーナも特に理由はないけどさ。笙子のお部屋に入って感動したし、それから、こんなシーナにいきなり声をかけてくるひとって、どんなひとだろうって興味が湧いたのかもね」
「なるほど。でもこちらこそ、こんなわたくしを受け入れてくださって、恐縮ですわ」
「ふふ」紫以菜はまた笑い出しました。「でも変なの。こんな奥手な人が、ほんとうによく、見ず知らずの子供に声をかけたよね」
「それは……言わない約束ではないですか……」
わたくしは、消え入りたくなるような気持ちになりました。
「ごめんごめん。でも、最近気づいたんだけどさ、シーナたちが歩くときって、いつも一歩だけシーナのほうが前なんだよ。知ってた?」
「そうかしら。そんなことはないと思いますが」
「そうだよ。だいたいシーナが先。笙子があと」
「そうでしょうか……」
そうだとしたら、それは、わたくしがずっと紫以菜のことを見ていたいからかもしれません。もちろん、口には出しませんが。
「でもシーナにはそれが心地いいの。ミズーリの散歩だって、シーナが先を歩くことも、よくあるのよ」ミズーリに目配せして、「ね?」と言いました。ミズーリは、紫以菜の目を見て、ハッハッと息をしています。
「では、相性がよろしいのではないでしょうか?」
わたくしはそう言ってから、なにを恋人同士のようなことを言っているのだろうと、急に恥ずかしくなりました。女の子同士ですし、そういう話題もおかしくはないとは思いますが。
「そう、いいよね!」
紫以菜は無邪気に笑って言いました。
「じゃあさ、笙子は彼氏はいるの?」
続けて、そう聞きました。
わたくしは、さて、と佇まいを直してしまいます。急に現実に戻された気持ちになりました。あのことは言うべきでしょうか。まだ、紫以菜には言ってはいません。
「彼氏は……いませんわ」
考えた末、そう言いました。
「そうなんだ。可愛いのに」
「可愛いだなんて! そんなことはありませんわっ! わたくしみたいな、背の小さな鼻ぺちゃの女なんて。全然ですわっ」
ひとからそう言われるのは初めてではありませんが、紫以菜に面と向かって不意に言われると、声が上ずってしまいました。額から汗が噴き出ますが、これは暑さのせいだけでしょうか。
「可愛いよ。目はくりっとしてるし、骨格も細くて、でも肉付きはよくて健康的。栗色の髪も似合ってるよ。脚は少し短いけどね」
「もう。ご冗談はよしてください!」
「もっと言おうか? ファッションのセンスもいいし、頭もいい。あと、声も素敵だよ。それから……」
「からかわないでくださいな!」
私がそう言うと、紫以菜は手を叩いて笑いました。
「ははっ。やっぱり笙子って面白い!」
「大人をからかうものではありませんよ」
「大人? 笙子は大人なのか……」
紫以菜はそう言って、腕を組んで考える、わざとらしいジェスチャーをしています。
「まったく、もう」
「じゃあ、笙子もシーナの好きなところ言ってよ」
紫以菜の好きなところ?
深く輝く黒い瞳。形のいい、ほどよい大きさの目。小ぶりな鼻。さくらんぼのような唇。桜貝のような両の耳。高級ハープのように流れるセミロングの黒髪、平たいけれど均整のとれた顔立ち。肩から腰にかけての、細いけれど勁い線。細い二の腕と太もも……。挙げればきりがありません。いえ、見た目ばかりでありません。わたくしのような大人にももの怖じせずに平常心で対応してくれるところも好きです。
「す、素敵なところよ」
わたくしは、全部を一度に言い切れませんでした。
「なあに、それ。曖昧じゃん。それにいきなり『す、素敵なところよ』なんて言われてもあんまり嬉しくないんですけど」
つまらなそうに頬を膨らませています。
「いいけどね。笙子はシーナのこと好きだって知ってるから」
「す、好きですわ。もちろん」
紫以菜はまた、にこっと笑いました。栗鼠か兎のような愛らしい笑顔でした。
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