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四. 二人占め
季節外れの花火大会に誘ったのは、紫以菜のほうからでした。
「行こうよ! 次の日曜、空いてるでしょ?」
一週間前の日曜日、いつものように、わたくしのベッドにあぐらをかきながら言いました。
「ええ、空いてますが、わたくしたち二人でですか?」
「うん」
「お父さまはご一緒じゃないのですか?」
「ううん。二人で行ってこいって」
この地区の花火大会は、毎年九月の最終日曜日に行われます。大きな石橋の架かる川沿いが会場です。市民は、河原にぎゅうぎゅうに押し込められながら、それを眺めたり、道沿いに並んだ露店でたこ焼きや綿菓子やりんご飴を食べたり、射的をしたり、金魚すくいをしたりして楽しむ、どこにでもある花火大会です。
「よろしいのかしら」
「なにが?」
「紫以菜を一人にして、わたくしと二人だけで夜歩くなんて」
「もちろんだよ。シーナだって子供じゃないもん」
「……わかったわ。では、夜の九時までに帰るのよ」
当日、紫以菜のお宅にお迎えに行くと、紫以菜はちょうど玄関から出てくるところでした。浴衣を着ています。
浴衣!
紫以菜の浴衣姿を見るのはこれが初めてです。青と水色の中間ぐらいの地に、赤や黄色のごく小さな水玉模様が散りばめられています。帯は桃色。女の子用の下駄も履いています。鼻緒は銀。肩から下りるほぼ垂直のラインが、体の細い線を強調していて、愛らしい。
「やっほ、笙子!」
両手を挙げて、玄関から出てきました。
可愛い!
わたくしは、初めて紫以菜をお見かけしたときのような衝撃を受けました。また時間が止まったように思いましたが、今回は冷静です。この美しい少女がだれなのかを知っていますし、相手もこちらを知っています。現に、わたくしの名前を——ごく親しいひとにするように——発したではありませんか。その意味では、今回のほうが特別なのかもしれません。ユー・ノウ・マイ・ネーム。
「紫以菜! 可愛いではありませんか!」
「似合ってるかなあ?」
自分でも可愛いと思っているとわかるような、わざとらしい笑顔で聞いてきます。
「もちろんですわ。ほんとうに可愛らしい。それに比べて、わたくしは……」
わたくしはといえば、普段着です。
「え、でもさ、笙子だって、少しはおしゃれしてるでしょ? これとか」
紫以菜はわたくしの耳たぶに手を伸ばしました。ぎりぎり届くくらいです。そこにあるのは、いつもはあまりしない、貝殻の耳飾りでした。
「ええ、まあ……」
ほんとうは今日だけのおしゃれをしてきたのに気づいてくれたことは、少し嬉しい。
そこに紫以菜のお父さまが出てきました。
「笙子ちゃん。今日は頼んだよ。僕も一緒に行きたいんだけど、例のとおり、月末だからこっちも忙しくてね」
「はい。お任せくださいな。お仕事に集中してください」
「ありがとう。お言葉に甘えて。手を離さないようにね」
それを聞いて、紫以菜は、
「手」
と言い、左手をわたくしの右手に差し出します。
「はい」
わたくしも、紫以菜の手を握りました。
「『はい』だって。可笑しなひと」
にこっと笑って言いました。
会場の河原は、例年どおり、ぎゅうぎゅうに観客が敷き詰められていて、文字どおり付け入る隙がありません。
なので今日は、わたくしのお父さまのお友達(経営者同士の集まりで懇意になった堅田さまという方)の邸宅にお邪魔することにしていたのです。
それはちょうど川沿いにあり、三階建ての邸宅の屋上からは花火が存分に見えるのです。周りには、この邸宅より高い建物はありません。ほんとうに独り占めです。いえ、二人占めでしょうか。
お宅にお邪魔すると、堅田さまご夫妻が迎えてくれました。お父さまのお友達といっても、見たところ、四十代のご夫婦でした。
「僕たちは花火なんて見飽きてるし、二人で屋上でゆっくりしたらいいよ。もともと興味もないからね。さ、どうぞ」
堅田さまは、邸内に案内してくれました。
「お邪魔します。でも、ほんとうによろしいのですか? 気を遣わなくてもよろしいのですよ」
「いいよ。ほんとうのことなんだから。それに、君のお父さんにはお世話になっているし。あ、ほら、もう始まるころだ。お話はまた、あとにでもしよう」
リビングの掛け時計を見ると、夜七時十分前を指しています。
「おじさん、ありがとう!」
紫以菜はそう叫んで、階上に上がろうとします。
「こら、紫以菜。ご挨拶もまだでしょ」
「こんばんは!」
すかさず言います。
「この子が紫以菜ちゃん? 可愛いね。話は聞いているよ。今、屋上に案内するからね」
屋上に上がると、そこには深い紺色に沈む町並みの底に、お祭りの提灯や電飾が散らばっているのが見えました。
「すごい! 丸見えじゃん!」
紫以菜は目を輝かせています。
「そうだ。丸見えだ」
堅田さまは目を細めています。堅田さまにはお子さまがいらっしゃらないと聞いています。「じゃあ、ゆっくりしていってよ」と言って、邸内に戻られました。
「独り占めだね〜。あ、二人占めか」
わたくしはどきり。同じことを思っているではありませんか。
「そうですわね」
ここからは、花火はもちろん、川沿いに並ぶ露店、そこをゆく人の群れが見下ろせます。もともと一車線の狭い道なので、文字どおり、すし詰め状態。
周りの建物を見ると、わたくしたちと同じように、屋上で花火を待つひとの姿も少し見られました。テーブルと椅子を出して、ビールを飲んで寛いでいるひと、ギターを抱えているひとも見えます。皆家族連れのようですが、女性二人というのは、わたくしたちだけのようです。
「いい眺め。笙子のお屋敷も見えるんじゃない?」
「そうですわね。あれかしら?」
お屋敷は対岸の傾斜地の中腹に建っているので、ここから見えるはずです。自分でいうのもなんですが、この辺りでは目立つ邸宅です。少し探すと、見つけることができました。門前の大きな街灯と、屋敷の二階の部屋(お父さまの書斎でしょうか)に灯りが点っているのが見えました。
「あれですわ。見えます? 紫以菜」
わたくしが指差して言いました。
「わかんない。あっち?」
「ほら、あそこに大きな街灯がありますでしょう?」
「う〜ん。シーナ方向音痴だからな」
「ほら、あれですよ」
紫以菜と視線が合わず要領を得ないので、わたくしは紫以菜のそれと合わせるために、顔を寄せて、同じ方向を向きました。
「あそこに」
と言って、お屋敷を指差したとき、頰と頬がくっつく寸前であることに気づきました。そのとき、わたくしは思わず離れたくなり、それと同時に、この行為にかこつけて、このままずっとこうしていたいような気分になりました。胸がどきどきとしています。このままどうすればよろしいのでしょう。
「う〜ん、わかんない」
紫以菜がそう言うので、わたくしはそれを潮に、体を離しました。
そのとき、なんの前触れもなく、ひゅ〜、という間の抜けた音が聞こえました。顔を上げた瞬間、
どん!
と、一発目の大きな花が咲きました。真っ赤なダリアのような花でした。
紫以菜もびっくりしたようです。
それに続いて、
どん!
どどん!
どん どん!
と連続で。観客も、それぞれに声を上げています。
「すごいね、紫以菜」
見ると、紫以菜は無言で見入っています。花火そのものを見るのが初めての子のように。わたくしは思わず、その顔を見入ってしまいました。
夜空と同じくらい深い紫以菜の瞳の中には、赤、白、緑、青、様々な色の粒が散りばめられています。もしかしたら、こちらのほうが綺麗なのではないかしらと思えるくらい。
どん どん どどん どんどん
間断的に、大小、彩り様々な花が咲き乱れます。
紫以菜もわたくしも、お〜、とか、わあ、などと言いながら見ていました。
そうやって一時間近く続いたでしょうか。ひときわ大きな一発がひときわ高く上がって、地鳴りのような爆発音を響かせたのが最後でした。皆はそれをわかっているのか、その一発のあと、ひとの群れは散り、まばらになっていきました。ざわざわとしだします。
「凄かったね、紫以菜」
「うん。こうふんした!」
目が輝いています。
余韻に浸ってから、なんとなく道を見下ろすと、ある女性と目が合いました。千草でした。
「笙子だ! やっほ!」
大きく手を振る千草。
「千草ではないですか! いらしてたのね」
「笙子だ、笙子だよ、ほら」
千草はそう言って、隣にいた女性の肩を叩きます。振り返ったそのひとはあかりでした。
「ほんとうだわ。笙子ですわ」と、あかり。
「そんなところで見てたのか。特等席じゃん」と千草。
二人とも実家暮らしですが、その家もここからはそれほど遠くないですし、二人で来ていたようです。
「ええ、とってもよく見えましたわ」
わたくしは声を張り上げました。
「こっちにおいでよ! ほら、そっちの、あ!」わたくしの左隣の人影に気づいたようです。「もしかして、紫以菜ちゃん?」
「そうですわ。この子が紫以菜。初めまして、よね?」
紫以菜は、苦笑いしています。
「初めまして!」
「初めまして〜」
千草とあかりがそれぞれ言いました。
「二人ともこっちにおいでよ〜。お店廻ろ〜」
堅田さまご夫妻には申しわけないですが、わたくしたちは簡単にご挨拶だけして、道に出ました。
道に出ると、千草はよくわからない粉物、あかりは綿飴をそれぞれ手に待っていました。二人とも浴衣姿です。千草は若草色、あかりは桃色の浴衣でした。
「すごくいい席で見てたじゃん。あたしたちなんて、そこの地べただよ」
千草が河原の芝生を指して言います。
「まあ、あれはあれでよかったけどね」とあかり。
「花火すごかったね」
千草が紫以菜に目線を合わせて言いました。
「うん。悪くなかった!」
千草とあかりは顔を見合わせて笑い合いました。「悪くない」という言い方が可笑しかったようです。
「あたし、千草」
「あ、わたし、あかりっていいます」
二人がそれぞれ自己紹介しました。
「わかった。大学の同級生でしょ?」
紫以菜には二人のことは何度か話してあったので、すぐにわかったようです。
「そう。大学では同級生なんていい方はしないけどね。ていうか、二人、超いいとこで見てたじゃん。羨ましいじゃん」と千草。
「でしょう。よかったわよね、紫以菜?」
紫以菜は、こくりと頷きました。
こうして四人で歩いていると、どこかむず痒い感じがいたします。紫以菜といるときのわたくしと、千草とあかりといるときのわたくしでは、わたくし像が違いますし、両者からしてみても、わたくしの姿はいつもとは違って見えるだろうなと思うと、どこに自分を持っていけばいいのか、思案してしまいます。それに、なぜか、わたくしが紫以菜と一緒にいるところを、この二人には見られたくない気もします。
話の中心にいるのは紫以菜でした。千草とあかりにとって、紫以菜と直接話すのは初めてですし、女子大生とお友達の小学六年生というものに興味津々でした。紫以菜のほうも、わたくしが話に出す貴重な友人二人への興味はあったようです。
わたくしと紫以菜がどこでどう知り合ったか、というようなことは、詳しくは話したくありませんでしたので、ぼやかしましたが、二人は深入りはしてきませんでした。
それよりも、千草とあかりは、今どきの小学生事情、特に文房具事情に興味があるようでした。紫以菜のクラスではなぜか筆ペンが流行っていることや、同時にねりけしがいまだに流行っていること、シャープペンが認められていることなどに驚いている様子でした。
わたくしは、気づいたらずっと黙っていました。
あかりがそんなわたくしに気づいたのか、
「笙子? ごめんよ、紫以菜ちゃんを尋問にかけて。宇宙人でも捕まえるみたいに。つまらんかったよね」
と言いました。
「よろしいのです! わたくしは、紫以菜をお二人に紹介できて嬉しいのですよ」
それは本心ですが、わたくしだけの存在であった紫以菜が、こうして二人の面前に初めて晒されたことに、嬉しさとは別に、もったいないような複雑な気持ちになったのも確かです。
「なんか、変なの。あたしたちといる笙子とはちょっと違うみたい。当たり前だけどね」
千草が言います。
「ふふ」あかりも笑っています。「あ、笙子。紫以菜ちゃん、こんな遅くまで連れまわしていいの?」
腕時計を見ると、夜九時数分前でした。
「いけないわ。九時までに帰すと言ってあるのです」
二人とは別れ、わたくしは紫以菜をお宅までお送りしました。
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