八. 静かな夜を二人で

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八. 静かな夜を二人で

 その日は一日中、大学図書館で資料と睨めっこしていました。わたくしの卒論の主張に見合った裏付けを取る必要があることを担当教官に厳しく言われ、危機感をもって作業を始めたところでした。  ひととおりの目処はついたかと思ったところで、バッグの中のスマホが鳴りました。あかりからのLINEでした。 〈千草とスケート場行かない? 今日オープンしたらしいよ!〉  時計を見ると、夕方六時を回っています。  今晩……。今晩は紫以菜のお宅にお泊まりの日ではないですか。 〈申しわけありません! 今夜は約束がありますの〉  わたくしはそう返信し、図書館を出ました。  すっかり陽は沈んでいて、コートがないと外は歩けません。わたくしは、白い息を吐きながら、街灯や車のヘッドライト、煌びやかな電飾(クリスマスに向けてでしょうか)の輝く街を、早足で歩きます。  図書館では、全く頭に浮かびませんでしたが、紫以菜のお宅でお泊まりだと思い出したわたくしの心は、急に踊るようにうきうきとし始めました。  思えば、お友達のお宅にお泊まりということを、わたくしは体験したことがありません。十代のころの友達はもちろん、千草の家にも、あかりの家にも、お邪魔したことはあれど、泊まったことはありません。  しかし、十二歳の小学生との二人でのお泊まりに高揚している自分も、我ながら変な感じがします。  夜どおし、なにを話しましょう?  準備を整えるために一度お屋敷に帰ると、予定を知っている山岡が、あらかた必要なものを用意していました。タオルや洗面セット、シャンプーやトリートメント類、化粧水、お化粧セット(わたくしの場合は簡単なものです)、わたくし自身で揃えなければいけないもの以外は用意してくれていました。 「お嬢さま。今日は明るい顔をしてらっしゃいますね」 「そうかしら」 「ほんとうに紫以菜ちゃんがお好きなのですね」  山岡は、なにかを含んだような笑みを浮かべています。 「ええ。そうよ。では、早速いってきますわ。お父さまは?」 「まだお帰りになっていません。朝、出社される際に、『あまり遅くならないように言っておいてくれ』と仰っていました」 「遅くならないように、って。お泊まりだと言ってるではないですか。遅いどころか、翌日になりますわ」 「それもそうですね」 「可笑しなお父さま」  山岡とわたくしは、お父さまの抜けた発言を笑い合いました。  午後七時。約束の時間に、紫以菜のお宅の玄関を開けると、ばたばたと、キャリーケースやボストンバッグを抱えたお父さまが出てこられました。まだ出発前なのかとつっこみたくなりましたが、それは予想範囲内です。 「ごめんごめん。悪いね。妙なこと頼んじゃって」 「とんでもないですわ。わたくしが責任をもってお留守番いたします」 「助かるよ。こういうことは滅多にないんだけどね。僕の母さんも、まだ若いのにけっこう弱ってて。また頼むかもしれないけど、そのときはよろしく」 「ええ、喜んで!」  喜ぶべきことなのかどうかは置いておいて、その返事を頼もしくも、半ば可笑しいようにもとったのか、お父さまは苦笑いしています。 「お父さん、早くしないと電車乗り遅れるよ〜」  お父さまとは対照的に、紫以菜がゆっくりと、奥の食卓から出てきました。 「わかってるわかってる。今ちょうど終わったところだから」 「うそ。スマホだって机に置きっぱだし、髭剃りも洗面所にあったよ。ほら、これ」  紫以菜が電気シェーバーをお父さまに渡します。 「だから、これを取ってきて完了、ってところだったんだよ」 「あ、そ。じゃあ、いってらっしゃい」 「行ってくるよ。じゃあ、笙子ちゃん、頼んだよ!」  お父さまは、一泊のはずなのに、海外旅行にでも行くのかしら、というくらい大きな荷物を抱えて、少しふらつきながらも出ていかれました。 「いってらっしゃ〜い」 「いってらっしゃいませ!」  紫以菜のお父さまは、在宅のお仕事ですので、お邪魔するときは大抵いらっしゃいます。ですから、特に夜に、お父さまのいないこのお宅に自分がいるのが、なにかいけないことをしているような気がして、わたくしはつい、不敵ににやけてしまいました。 「なに笑ってるの。変なの」  紫以菜がわたくしの腰を突きます。 「ごめんあそばせ」  食卓に入ると、オムライスが用意されていました。 「まあ、わたくしオムライス、大好き!」  わたくしは、テンションが上がってしまいます。 「知ってるよ。だから、シーナがお父さんにリクエストしたんだ。えへん」 「ほんとう? ありがとう!」  オムライスひとつで喜ぶ女子大生と、それを周到に準備してた女子小学生。急にその構図が可笑しなものに思えて、またわたくしはにやにやしていたようです。 「だからなに笑ってるの。笙子、今日気持ち悪い」 「ごめんあそばせ。では、いただきましょうか」 「うん!」  紫以菜のお宅は路地の奥にあるので、夜は特に静かになります。周りのお宅の生活音を遠くに聞く、居心地のいい静けさでした。 「紫以菜は一人でお留守番って、したことはありませんの?」  わたくしはオムライスを口に含みながら言いました。もごもご。 「あるよ。あるけど、夜に一人でなんて、初めてに決まってるじゃん」 「左様ですか。まあ、流石のお父さまも、そこまではさせませんわよね」 「当たり前じゃん。でも、やったらやったで、へーきだと思うけど」  そう言いつつも、紫以菜は伏し目です。 「お化けや幽霊は怖くないのですか?」  わたくしは、鎌をかけるように言いました。 「ちょっと、変なこと言わないでよ。考えないようにしてたのに!」  わたくしは、くすくすと笑いました。 「笙子は怖くないの?」 「わたくしは大丈夫ですわよ」 「ほんとに?」 「ええ。なんなら、夜一緒におトイレに行って差し上げてもよろしくてよ」 「だいじょうぶだよ、それくらい。ばかにしちゃって」 「ほんとうかしら」 「むう……」  紫以菜はむきになるので、またわたくしは笑ってしまいます。  洗い物は紫以菜がしてくれました。最初は「手伝いますわ」と言ったのですが、頑なに拒否するので、結局、わたくしはそのあいだ、居間でテレビを見ていました。  くだらないバラエティ番組ですが、わたくしの背後からは、紫以菜が食器を洗うカチャカチャという音と、水の流れる音が聞こえます。わたくしには、それが不思議と落ち着くのでした。時間が流れていることを忘れてしまうような、優しさがあります。ずっとこのままでいたいような。  紫以菜が洗い物を終えて居間に戻ってきたので、わたくしは早速、「では宿題ですね。教えて差し上げますわよ」と言いますが、紫以菜はいやいやをします。 「せっかく笙子と一緒にいるのに、なんで宿題なのさ」 「わたくしと一緒にいるからではないですか。わからないところを聞けるでしょ?」 「いいの。聞かなくてもわかるから。それに今日は金曜日だし、宿題は明日か明後日やればいいでしょ」 「それもそうですが。では、紫以菜はいつも、金曜日のこの時間はなにをしていらっしゃるの?」 「そうだね。ゲームしたり漫画読んだり、あとは……笙子のこと考えたり?」 「え!?」  わたくしは、不意な言葉に、顔を真っ赤にして驚いてしまいました。 「な〜んてね」 「まあ。大人をばかにするものではありませんよ」  わたくしは平静を装って言いましたが、上手く隠せたでしょうか。 「じゃあ、笙子は? いつも家でなにをしてるの?」 「わたくしは、今は卒論を書いてますわ」 「そつろんがないときは?」 「本を読んだり、スマホを眺めたり、みんなと特段変わりはしませんわよ」 「つまんないな。趣味とかないの? 今まで、あんまりそういう話してなかったけど」 「そうですわね。趣味といえば、お茶とか……あとは、カレー屋さん巡りでしょうか?」 「え、それは知らなかった! 笙子ってカレー好きだったんだ!」  紫以菜は身を乗り出しました。 「紫以菜とはそういう話にならなかっただけで、論文で忙しくなかったときは、よく行ってましたわ。最近はほとんど行けていませんがね。紫以菜はカレーはお好き?」 「うん! 大好き!……でも、笙子が行くようなカレー屋さんって、辛いんでしょ?」 「それぞれですわ。甘いのもありますわよ」 「うそだ。お父さんと行く所はどこも辛いもん。外のカレー屋さんはみんな辛いんだ」 「そんなことはありませんわ。でも、辛いのもいいではないですか。紫以菜は辛いのがそんなにお嫌?」 「子供だもん。やだやだ」 「都合のいいときだけ子供になるのね。では、今度ご一緒しませんこと?」 「うん、行こう行こう!」  それから、しばらく話して、場所を紫以菜の部屋に移すことになりました。時刻は夜九時を回っていました。 「汚いけど……」  そう言って案内してくれた部屋は、階段を上がったすぐ脇にありました。いつもは、わたくしのお部屋に紫以菜が遊びにくるので、わたくしのほうが紫以菜のお部屋に上がるのは、これが初めてです。  その中は、わたくしの想像とは少し違っていました。  木造の家の壁は、質素なベージュ色の砂壁になっています。そこにはキャラクターもののカレンダーが掛けられている程度で、派手なポスターなどは見られません。桃色の絨毯が敷かれているのは女子小学生らしいですが、あとはベッド(これはファンシー調で可愛らしいですが)、勉強机、カラーボックスがあって、カレンダーと同じキャラクターのフィギュアが、一つ飾られていました。 「意外ですわね。もっと煌びやかなものかと、想像していましたわ」 「こんなもんだよ。確かに、みんなはもっと綺麗な部屋を貰って、自分なりに飾り立ててるけどね。シーナはそういう気にはなれないんだ」 「どうしてかしら?」 「そんなものにお金をかけたくはないの。言ったでしょ。シーナは貯金が好きなんだ」 「そういえば、そうでしたわね。でも、このあいだの旅行で使ってしまったのではないですか?」 「そうだね。お小遣いもみんなよりは少ないし」  紫以菜は、恥ずかしそうに言いました。 「もう九時を回ってますわ。小学生はもう寝る時間ですわよ。わたくしが子供のころは、もうこの時間には寝かしつけられましたわ」 「今どきそんな子供はいないよ。みんなドラマ見たり、スマホで連絡取り合ったりしてるんだよ」 「紫以菜はスマホを持ってませんよね?」 「だって必要ないもの。学校で会うのに、なんで家でも繋がらなきゃいけないのさ」 「今どき珍しいわね。でも、防犯ですとか、もしものときのために必要だとは思いますが。では、夜は暇でしょう」 「うん。だから、家でなにしてるのか、って質問がいちばん困るな。なんだかんだで時間って過ぎるもの。自分とは関係なくね。そうだ。お風呂入らなきゃ」  わたくしも、そろそろ入らなければと思っていたので、同意すると、紫以菜が改まったように、 「一緒に入る?」  と言いました。わたくしはまた顔を真っ赤にしてしまいした。 「一緒にって……!」 「冗談だよ〜。笙子ってば、やっぱり面白い」  わたくしは返す言葉もありません。 「笙子、入ってきなよ」 「……」  わたくしは、ばつが悪くなり、無言になりました。  お風呂を上がってお部屋に戻ると、わたくしの分の布団が用意されていました。紫以菜が小さな体でやってくれたのかと思うと、思わず笑みがこぼれます。 「まるで旅館ではないですか」 「まあね」紫以菜は勝ち誇ったように、両手を腰に当てて言いました。「じゃあ、シーナ、早速入ってくるね」  わたくしは、紫以菜の部屋に一人残されました。時計の秒針の音と、隣の家から漏れるテレビの低い音が聞こえます。  この居心地のよさはなんなのでしょう。千草のお部屋にもあかりのお部屋にも、気の置けない仲とはいえ、なぜか、落ち着きのなさを覚えるものです。他人のお部屋とはそういうものだと思います。  しかし、紫以菜のお部屋にはそれがありません。  自分のプライベートな空間ではないはずなのに、不思議な落ち着きがあります。なぜか懐かしさすら覚えます。ものごころついたときから、洋館住まいだったわたくしですが、この感覚は、考えてみれば、不思議なものです。  わたくしは、しばらく、その海の中に身を浸していました。  紫以菜は思ったより早く戻ってきました。 「シーナの部屋、荒らしたりしてないでしょうね?」  タオルで髪をごしごししながら、出し抜けにそう言いました。 「し、してませんわ。ずっとじっとしてましたわ」  わたくしはほんとうのことを言っているのに、狼狽してしまいました。 「じゃあ、そのご褒美に、シーナの秘密のノートを見せてあげる」 「まあ、ほんとう? どんなノートですの?」 「ジャーン。これですわ」  出てきたものは、クラスメイトのプロフィール帳のようなものでした。コピーされた紙をホッチキスで簡単に留めたものです。そこには、それぞれの子供の名前や誕生日、星座、血液型の他に、好きな食べ物や、好きな言葉、将来の夢などが書かれていました。好きなタイプ、好きな芸能人、というものもあります。  わたくしたちはカーペットに座って、一緒にページを捲り始めました。 「わたくしにも、こういうのはありましたわ。懐かしいわ。紫以菜のを見てもよろしくて?」 「え、いきなり見るの? もうちょっと他のも見てからにしようよ」 「そうですが、わたくしが他の子のを見ても面白くないでしょう?」 「それはそうだけど……」 「そんな恥ずかしいのなら、自分から言わなければよろしいではないですか」 「うーん……じゃあさ、凛人くんは? 凛人くんのもあるよ」 「凛人くん?……そうですわね」  確かに気なります。 「うーんとね、ここだね」  その頁は、頭から六番目にありました。  及川凛人  五月十日生まれ 牡牛座 A型  好きな食べ物:豚カツ  将来の夢:公務員 「将来の夢が公務員だなんて、なんだか、ばからしいわ」 「そんなもんだよ。ほら、他の子も『市役所』とか書いてるよ」  紫以菜の言うとおりでした。公務員の他には、女子大生というものもあります。わたくしはまさにそれなわけですから、簡単な夢だこと、という気分です。 「こうやって、今の子供の夢を見るのも面白いものですわね」 「そうかもね。ちなみにシーナはこれ」  勿体ぶったわりには、呆気なく見せてくれました。頁には、  須磨紫以菜  四月二十日生まれ 牡牛座 AB型  好きな食べ物:和菓子(特におはぎ)  将来の夢:夢のような人 「夢のような人? なんですか、これは」 「夢のような人は夢のような人だよ。ファンタスティック!」  紫以菜はそう言って立ち上がり、両手を挙げて、ぴょんと小さく跳ねました。 「抽象的過ぎてわかりづらいわ。例えば、どのようにファンタスティックなのです?」 「例えば……そうだね、病気とかで苦しんでるひとを笑顔にするようなひととか、棄てられて身寄りのない子を助けるような。そんなひとだよ」 「それは素晴らしいではないですか。ファンタスティックですわ」  意外にもしっかり考えていることに感心してしまいました。 「だって、ひとを笑顔にするんだよ。魔法のようじゃない」 「いいですわね」  別の欄に目を移すと、  好きなタイプ:お姉さんのような人  とありました。数年前の離婚でお母さまと離れてしまい、お父さまと二人で暮らす紫以菜にも、やはり寂しさはあるのでしょう。 「お兄さんではなくて、お姉さんなのですね?」 「そうだね。お兄ちゃんは頼りになるかもしれないけど、心の面では安らぎを覚えないような気がする」  安らぎ……  紫以菜は続けます。 「安らぎは大事だよ。ああ、シーナはこの世界にいてもいいんだな、っていう安心感が欲しいの」 「安心感ですか。今は安心感、安らぎは感じていないのかしら?」 「お父さんは優しいし、家のこともできるけど、まあ、せかせかしてて落ち着かないかな」 「そんなの贅沢ですわ。今で十分ではないですか」 「そうかもしれないけどね」紫以菜は居住まいを正して、「じゃあ、笙子はお兄さんかお姉さんか、欲しいと思ったことない?」と聞きました。 「そうですわね……あまり、そういうことは考えたことはありませんわ」  わたくしは正直に言いました。 「じゃあ、弟か妹は?」 「どちらも欲しいと思ったことはありませんわね」 「そうなんだ。まあ、笙子を見てると、そんな感じはするけどね」 「まあ、どういう意味かしら?」 「そのまんまの意味だよ。……なんというか、マイペース?」 「失礼ですわね。わたくしだって、これでも、周りのことはきちんと考えて行動しているつもりですわ」 「ごめんごめん、そういう意味じゃなくてさ」紫以菜は弁解しました。「自分の意思を曲げなさそうな感じがするな」 「わたくしがですか?」 「うん。引っ込み思案で優柔不断なくせに、頑固なところがあるでしょ? それはいいことだと思うよ」 「そうかしら」  ほんとうにそうでしょうか? 「いいことだよ。笙子の意志の強さは、十分知ってるよ」 「紫以菜は、そういうことがよくおわかりになりますわね」 「だって笙子のことだもん。いつも見てるからね」  紫以菜は白い歯を出して、にこり。 「まあ……」  わたくしは、また照れて頬に手を当ててしまいました。 「ささ。もう寝る時間ですわよ」  誤魔化すように言いましたが、紫以菜はまだにやついています。 「ほら、もうこんな時間ではないですか」  時計の針は、夜十時を指しています。  紫以菜は、「わかったー」と素直に言って、背伸びを一つ。 「今日はいい一日を過ごせましたわ。ありがとう。また明日」 「こちらこそ、ありがとう! シーナも一日、無事に楽しく過ごせましたわ」 「とんでもありません。こちらこそ、ですわ」 「うん! 寝るか〜」  紫以菜は紐を引っ張って電灯を消し、ベッドに上がりました。わたくしも布団に潜ります。 「ねえ、笙子」  紫以菜が、常夜灯だけになった薄闇の中で言いました。 「はい?」 「なんでもない」  紫以菜はそう言って、布団を頭からかぶって、それっきり黙ってしまいました。
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