34人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
鍵がかかっていないことに気づいて、そのまま入ると、驚いたような顔でフラロアが立っていた。上はシャツを着ているが、下はまだ素肌が見えている。
水色の地にクマの顔がプリントされたパンツが、シャツの間から覗いていた。
トーマスの視線に気がついたフラロアが顔を赤くする。
「あっち向いて!」
「ごめ、ごめん!」
もぞもぞとトーマスが後ろを向く。しばらくして、着替えを終えたフラロアに声をかけられた。
「どうしたの?」
「ええと……、その、フラァ――」
たしかに何かを伝えたかったはずなのに、その相手を目の前にして言葉が消える。フラロアはまだ小さな手で髪をさらりとかき上げて、小首を傾げた。トーマスが手を差し出すと、少しためらった後、フラロアの手がトーマスの手に重なった。片膝をつけて、フラロアと目線を合わせる。
「フラァ……」
「トーマス、ぼく、トーマスが好き」
決定的な言葉を、フラロアが言った。言葉が胸の中心にずんと響いて、トーマスは唇を噛む。「恋の好きだよ」と、フラロアが声を低くして言う。
チリチリと胸が焼ける。フラロアはトーマスの宝物だ。美しくて、無邪気で、賢くて、体いっぱいに気品と愛が詰まっているような少年。
フラロアからもらった、初めての手紙が脳裏をよぎった。字はまだ歪んでいて、所々に青いインクがシミを作っていた。三歳の少年が一生懸命に書いた「愛している」という言葉。
じわ、と涙で視界が歪んだ。
「トーマス!?」
「ごめ、おっきくなったな、と、思って……」
「すぐ父親目線になるんだから。……トーマス、ぼくね、夏休みが終わった後、その、おねしょとか、しちゃったの」
「え?」
初耳だ。驚くトーマスに、フラロアが小さく首を縦に振った。
「怖い夢、いっぱい見たりして、我慢できずにジジ様に真夜中に電話したこともあったの。ご飯もうまく食べられなくなっちゃって」
電話口のハジャナの声を思い出す。フラロアの精神が、思った以上に危機に陥っていたのだと知り、愕然とする。全く、そう感じなかった。
――俺はフラァの何を見ていたんだ。
不調にも、恋にも気づかず、フラロアの言動を困ったなどとのんきに考えていた。
悔やむトーマスに、フラロアが椅子を運んできた。フラロアはベッドの端に腰かける。
トーマスのこぶしをフラロアがつついた。大きな手と小さな手が絡まる。
「トーマスが来た日ね、一緒に寝ようってトーマスが言ってくれたでしょう? 本当はとっても怖かったの。その、汚しちゃうかもとか、ぼく、寝ながら部屋を歩いたりしちゃわないかなって。トーマスに嫌われたくないって」
「そうだったのか」
「うん。でもねぇ、トーマスがぎゅってしてくれた時にね、ぼく頭の中がふわふわってしてね、もう大丈夫だって思ったの。それで、朝ね、トーマスが寝てるの見ながら思ったの。トーマスと離れたくない。トーマスに、ぼくのこと好きになってほしいなって。ジジ様にお願いして、トーマスが残ってくれるってなった時、すっごくすっごく嬉しかった。頭の中あっつくて、ぼく、今まで以上に好きになっちゃったって思った」
「フ、フラァ……」
ストレートな言葉にたじろぐトーマスの手をフラロアが握った。力の強さにはっとして握り返す。
フラロアとは意味が違っても、愛情を抱いていることには変わりない。そのことをフラロアに分かってほしかった。
「フラァ、君の気持ちは嬉しいし、俺も、愛してるよ。でも、想いには応えてあげられない」
「うん。ジジ様にも時間がかかるぞって言われたから、しょうがないよね」
「え?」
細く、鋭い目をパチパチと瞬きするトーマスに、フラロアは不敵な笑みを見せた。
「諦めないよ」
大きな目を細めて口の端を上げるフラロアに、図らずも心臓が波打ったトーマスが絶句する。
「昨夜ジジ様に言われて思い出したんだけど、パパにトーマスと結婚したいって言ったときも、超鈍いからがんばるんだぞって。トーマス泣かせたら許さないぞって言われてたんだよね」
「パパ、サハス!? そんな前から?」
「うん。物心ついたときから、ぼくはトーマス一筋だよ。また会えなくなっちゃうって焦っちゃったけど、でも会えなくなったらなったで方法はいくらでもあるし、ね。言っておくけど獣人族は重婚可能だよ。本気だからね」
許嫁がいるだろうという反論をあっさり塞いだフラロアが立ち上がる。
くるりと振り返ると、にっこり笑う。
透き通ったすみれ色の瞳を持つ天使がそこにいた。
「トーマス、今日のパンツの色は何色?」
灰色です、と答えるトーマスの頭には、フラロアから離れた方がいいのではないかという迷いは、見えなくなってしまっていた。
***
数ヵ月後、フラロアは入学試験を首席で突破した。
「フラァ~♡ がんばったお祝いは何がいいかなぁ?」
「トーマスがいい♡」
目尻を極限まで下げた祖父に、フラロアは間髪入れずに答える。むぅ、とサプライズプレゼントが失敗した親のような表情で、ハジャナがトーマスを見る。
「……トーマス、付き人の件、もう話したのか?」
「いいえ」
「付き人?」
「フラァが合格したら、付き人ひとり付けちゃろうと思っとったのよ。ほれ、保護者代わりに」
「そ、それ! トーマスは!?」
「候補のひとりです」
ハジャナの返答にフラロアの目が輝く。慌てて祖父の膝から下りて、トーマスの両手を握った。ぶわわっと尻尾が太くなる。
「ぼくと一緒に王都に行ってくれますか?」
驚くほど真剣な顔に、トーマスは無表情を崩し、へたりと眉を下げた。フラロアの他に、ストレートに求められることがなかったトーマスの頬が、赤くなる。
「……勉強も、学校生活も、今まで以上に大切にするって約束してくれ」
「する! トーマスも大切にする! 結婚しようね!!」
「まったく……。分かった、王都にはついていきます。君を見守るのが、俺の仕事のようだから」
「ぃやったぁー!!!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶフラロアを前に、トーマスとハジャナがそれぞれに微笑んだ。
氷岳の短い夏が終わりを迎える頃、少年と将来の伴侶は、新しい土地へ旅立つのであった。
<少年期編・End>
最初のコメントを投稿しよう!