16人が本棚に入れています
本棚に追加
それから一週間ほど経ったある日のこと。
俺は昼飯のため、会社と駅ビルを結ぶ空中歩廊を歩いていた。何を食べるか、駅ナカの店を思い出しながらてくてくいくと、歩廊下の主要道路で、数台の車のクラクションが鳴り響いた。同時に、ゴオンという爆音で歩廊が揺れる。
さすがに俺も驚いて、歩廊から身を乗り出してみると、車3台の玉突き事故が起こっていた。
「うわ。……まじか」
「うそだろ?」
「コレ人、死んでんじゃねーの? ネットあげよーぜ!」
周りが一気に騒ぎ出す中、呑気にスマホで写真を取り出す奴らもいる。だけど俺はそいつらを非難できない。
大惨事と言ってもいい事故なのに、頭の片隅で昼飯のことを考える俺もどうしようないやつだ。
「ちょっとあそこ、血ぃ出てない?」
女子高生たちが悲鳴をあげた。なるほどアスファルトには赤黒いシミが広がっている。
「秋葉くん!」
急に背後から声をかけられ、手首を掴まれた。瀬名さんが血相を変えて、俺の手を強く引いた。
「いくよ! 救助活動!」
「え? でも俺、昼飯」
「そんなの後! これも仕事! 保険会社の人間なら、こーゆー時動かないと!」
無理矢理、階段へと引っ張られた。上司の意向には逆らえず、仕方なく俺も走っていった。
道路は車3台が反対車線まではみ出ているせいで、閉鎖状態だった。
一番先頭にいた車はまるでミニカーのようにひっくり返り、煙まででている。中の人間を早く引っ張り出さないと引火して爆発が起こるかもしれない。
「誰か、手を貸してくれ!」
車の近くにいたサラリーマンが叫んだ。道端にいた野次馬のうち、数名が走ってくる。仕方なく俺もそれに混ざった。
「俺たちで車を持ち上げるから、君が中から引きずりだしてくれ!」
「え? 俺?」
「他に居ないだろ? ほら、いくぞー! いっちーにーっのー、さーん!」
俺が戸惑っている間にも皆の力で車がもちあがる。へしゃげたドアを開けて、中の男の肩をつかんで引きずりだそうとして、ぬるっと手がすべった。
血だ。
かなりゴツい体の男の、腹のあたりから血が噴き出していた。
ぶつけられた衝撃で、内臓にまで骨が刺さっているみたいだった。気を失ってる体は重すぎて、苦労して引きずりだしたけど、これは多分もう助からないかもしれない。
「おい、血が止まらないぞ!」
「救急車はまだか?」
ざわつきはじめる周囲とは裏腹に、俺の心は凪いだ海のように静かになる。
ああ、またか。
また、死ぬのか。
人の死に直面するたび、人間らしさが消えて、無情になっていく気がする。
「おい、目を開けたぞ!」
「君、大丈夫か! しっかりしろ!」
道路脇の花壇にもたれて座らされている男が、意識を取り戻したようだった。その間も腹からは血がどくどくと流れだしている。
思ったより若い男だった。その男が焦点の定まらぬ瞳で辺りを見回した。自分の置かれた状況がまだ理解できていないのかもしれない。
ぼんやりしていた男が、一瞬、雷にうたれたみたいに震えた。沢山の人に囲まれているのに、視線は俺に、俺だけに向けられている。
周りが「知り合いか?」という目で俺を見てくる。これもいつものことだ。瀬名さんもどっかで見ているんだろうか。
「……っ」
男が何か言って手を伸ばしてくる。限界まで見開かれた瞳は血走っている。
さあ。お前には今、俺が誰に見えているんだ。
誰であっても俺には関係ない。関係はない、けれど。
だけどせめて、武士の情けで、必死で伸ばされた手を掴んでやった。
死に行く人間へのせめてもの餞。それ以上でもそれ以下でもない。
「……あき、ば」
だから驚いた。
そいつの口からこぼれた言葉に血の気が引いた。一瞬、聞き間違いかと思った。だけどそいつは俺を、俺だけを見ている。
食い入るように、俺だけを。
「秋葉、……俺、お前にずっと、……たかった……」
その声に、心の扉を引っかかれた。頑丈に締め切ったはずの過去の扉が開いていく。
そうだ。こんな人でなしの俺が過去に一度、たった一度だけ、人を好きになったことがあった。
「一臣……?」
だが俺の声はきっとあいつには届かなかった。がくりと頭が下がる。俺の声と救急車のサイレンが重なる。
「かずおみっ!」
え。誰の声。こんなに叫んでるの。
まさか俺の声?
「いきます! 知り合いみたいなんで、一緒に病院、この子もいきます!」
瀬名さんの声がして、俺は救急車に一臣と一緒に乗せられた。
俺の頭の中にまでサイレンの音が響いている。わんわんと。
そうだ。おれは。
ずっと一臣のことが、好きだった。
一臣だけが、人でなしの俺を認めてくれた、唯一の男だったから。
最初のコメントを投稿しよう!