11 悪夢①

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11 悪夢①

 恐ろしく長い夢を見た。過去を追体験するような、臨場感溢れる夢だった。  もう三年も前になる。シングルマザーだった母が突然、再婚すると言い出した。本当に突然、青天の霹靂だった。  再婚すると聞かされた当日、母に連れられ向かった先は、ドラマでしか見たことのないような大豪邸だった。敷地を守る頑丈な塀、背の高い門扉、牧場みたいに広大な庭、太陽を反射する白亜の邸宅。 「ここが新しいお家なのよ」  母はまだ若く美しい人だったが、苦労が多くていつも疲れた顔をしていた。その母が、目を輝かせて未来を向いている。新しい生活に思いを馳せている。だから俺は口を出せなかった。  家政婦さん――そんな人が実在することに俺はまず面食らった――に案内され、屋敷内に通される。スリッパを用意されたが、履き慣れないので歩きにくい。踵から脱げる。  外観に負けず劣らず、内装も絢爛豪華であった。数部屋ぶち抜いて作ったような開放感のあるリビング、天井にぶら下がるシャンデリア、本革製のソファ、毛足の長い絨毯、煌びやかな調度品、置物、観葉植物に色とりどりの花々。これからこんな家に住むのでは片時も気が休まらないだろうと思った。  案内された先で待っていたのは、母より一回りは歳を取っていそうな中年の男と、その息子と思しき若い男だ。身一つで越してきた俺達を見下すような視線をひしひしと感じた。特に息子の方は、品定めするかのような露骨な視線を俺に浴びせてきた。  母が挨拶をし、俺も真似して頭を下げた。お互い自己紹介をした後、邸内を案内される。プールがあることには興奮したが、自慢話ばかり聞かされるので途中で飽きてしまった。  それから、家政婦さんが用意してくれた料理を食べた。ナイフとフォークなんて使ったことがなくて上手く操れず、食器同士をガチャガチャぶつけてしまった。食後にお茶を淹れてくれたけど、繊細な模様が描かれた薄焼きの高級ティーカップなんて見るのも初めてだったので、落とさないようにするので精一杯で味も何もわかったもんじゃなかった。  食事をしながら色々と話をしたが、上記の通り俺は始終緊張しっぱなしだったし、とにかく気詰まりで疲れていたし、その上相手方とは初対面だったため肩身が狭く、話しかけられてもまともに受け答えできなかった。  母の寝室はあの中年の男と一緒らしいが、俺にも広々とした一人部屋が与えられた。それまでは母と1DKのアパートに暮らしていたから、一人で一部屋自由に使えるなんてことは滅多になかった。自分だけの部屋を持てるなんて、一国の城主にでもなった気分だ。  だからといって、俺がこの場所を気に入ったというわけではない。新しい家族にも新しい学校にもなかなか馴染めなかった。俺の元々通っていた中学校よりはずっと治安が良く、隠れてシンナーを吸ったり盗んだバイクで走り出したりするような輩はいなかったのだが、なぜだか息苦しくて仕方なかった。  俺はだんだん学校に行かなくなった。母にバレないよう、とりあえず制服を着て家を出るのだが、結局学校へは向かわない。中学生だからバイトもできず、図書館で本を読み漁るのが常で、日がな一日川の流れを眺めて過ごしたこともある。  そうやって日の沈むまで時間を潰し、家に帰っても俺の居場所はない。義理の父は俺の母を愛していたようだが、その連れ子である俺のことは疎ましく感じていたようだ。視線と喋り方でよくわかる。邪魔だ、あっちに行け、と言わんばかりの態度で接せられた。俺にできることと言えば、自室に籠ることくらいである。  当時大学一年だった義理の兄も、やはり俺を疎ましく感じていたと思う。同じ家に住んでいてもほとんど顔を合わせなかったし、ろくな会話もない。機嫌がいいのは酒を飲んでいる時と女を連れ込んでいる時だけだった。  だからこそ、まさかあんなことが起きるなんて思ってもみなかった。    *  その年の夏休み。義父と母が泊りがけで旅行に行った。新婚旅行の代わりだか何だか知らないが、俺は兄と二人で留守番をすることになった。  昼間は平穏無事に過ぎ、無言のまま夕食を終え、兄の後で風呂に入った。ちなみにこの家は浴室も広い。旅館の温泉かと見紛うくらい広い。俺が足を伸ばして寝そべってもまだ余るくらい浴槽が広い。洗い場は、人一人そこで生活できるくらい広い。  俺が風呂から上がった時、兄はハーゲンダッツを食べながらテレビを見ていた。その後ろ姿を横目に、「どうしてこの男は今日に限って家にいるのだろうか」と思った。せっかく親がいないのだから、彼女と夜遊びにでも勤しめばいいのに。  そう思いつつ、しかし俺には関係のないことなので、声もかけずに二階へ上がろうとする――と、テレビの音声がぷっつりと途絶えた。何事かと思い振り向くと、さっきまでダイニングルームにあったはずの兄の姿は既になく、なぜか俺の背後にぴったりと張り付いているではないか。  俺は急に恐ろしくなった。距離が近すぎて怖い。兄の目的がわからず、かと言って邪険に追い払うわけにもいかない。速足で階段を駆け上がると、同じテンポで足音がついてくる。  本能的に、逃げなければと思った。胸がざわざわする。これはまずい。よくわからないけどまずい。急いで部屋に閉じ籠ってしまわなければ。布団にくるまってじっとしていれば、怖いことは勝手に過ぎ去っていくはずだ。  背後なんて顧みずに全力で逃げ、自分の部屋に辿り着き、急いでドアを閉めようとしたが――叶わなかった。兄の手によって阻まれてしまった。俺はまだ中二のガキで、同学年の連中と比べてもチビでひ弱で、だから成長しきった大の男相手に腕力で勝てるわけがない。簡単に兄の侵入を許してしまった。 「おいおい、どうして逃げるんだ」 「に、兄さんが追いかけてくるから……」 「お前、オレが嫌いか?」 「……別に、そういうわけじゃ……」  そういうわけじゃないけど、何となく嫌な感じがする。早く出ていってほしい。  だが兄は出ていかない。一歩も引かない。どんどんこちらへ迫ってくる。「嫌いじゃないなら好きってことだよな」などと世迷言を宣う。  いきなり抱き抱えられたかと思うと、ベッドに放り投げられた。状況が呑み込めずに目を白黒させていると、兄に圧し掛かられて体の自由を奪われる。 「な、なに? 何するの」 「……知らないのか?」  首を傾げて問われても、知らないものは知らない。何を知らないのかもわからない。そんな俺の顔を見て、兄は下卑た笑みを浮かべる。 「そうか、知らないのか。大丈夫、大人になるための儀式だよ。お兄ちゃんが全部教えてやるからな」  何のことを言っているのかと尋ねる暇もなく、兄の顔で視界が埋まり、唇に柔らかなものが重なった。その正体を認識する前に、別の柔らかなものが口の中に押し込まれる。何をされているのか、まだわからない。唇を割って強引に入ってきた柔らかなものは、まるで一つの生き物のように自由に口内を動き回った。  呼吸のやり方がわからず、息が苦しくなってくる。胸がどきどきして、頭の中がぼんやりと霞んでいく。溺れている人が藁を掴むのと同じように、がむしゃらに兄の頭にしがみついて髪を引っ張った。  数秒か数十秒か、あるいは数分か経って、ようやく唇を解放された。俺はすっかり酸欠になっていて、肩を大きく揺らしながら死に物狂いで空気を吸い込んだ。口の周りが涎でべたべたしていて気持ち悪く、腕でごしごし拭った。 「そんな反応はさすがに傷付くぞ」  俺はこんなにも苦しかったのに、兄は全く息を切らしていない。涼しい顔をしている。 「い、今の、なに……」 「キスだ。キスも知らないのか? とんだ箱入りだな」  俺を揶揄して笑った。  キス? キスって、あのキスか? 母が見ていたドラマで目にしたことはあるが、登場人物は誰一人として酸欠にはなっていなかったし、べろべろ舐めたり唾液でべたべたになったりもしていなかったはずだ。今された行為は本当にキスなのだろうか。 「キスだよ。これが正式なんだ。大人のキスさ」  一体何の嫌がらせなのだ。他人の唾液を口に含むなんて不潔極まりない。今すぐ口をゆすぎたい。そう思って体を起こそうとするも、兄の腕に押さえ込まれてしまう。いよいよ不愉快になって、俺は兄を睨み付けた。 「何、放して。もう用はないでしょ」 「お前こそ何を言ってるんだ。お楽しみはこれからじゃないか。夜は長いんだぞ」  暴れるなよと念を押され、ハーフパンツに手を掛けられる。脱がされそうになり、慌ててパンツを引き上げた。 「なっ、何すんだよ」 「暴れるなって言ったろう。いいから裸になれ」 「意味わかんねぇ、なんでそんなこと」 「お前は今から、オレに犯されるからだ」  おかされる? って、一体何のことだ。何のことかわからないけど、怖いことをされる予感がした。そういう雰囲気だった。 「セックスだよ、セックス。わかるだろう」  存在は知っている。具体的な内容は知らない。俺くらいの年齢で、漫画やゲームを貸し借りできる友達がいる人間ならば当たり前に持っている知識なのだろうが、俺は知らない。俺はとにかく無知で、非力で、危機管理能力が欠如していたのだ。  これから何をされるのか知らされないまま、あれよあれよという間に裸にされる。怖くなって逃げようとしたら、いつのまに用意していたのか紐で手首を縛られ、ベッドに繋がれた。裸というだけでも心細いのに、拘束までされてはますます不安が募る。  兄の大きな掌が迫ってきて、何かの儀式のように俺の体を撫で回し、舌が体中を這いずり回り、やはり何かの儀式のように汚いところを舐めて、触って――その先はいまいち覚えていない。痛くて、気持ち悪くて、吐き気もして、血がいっぱい出た。  物なんか入りっこない場所に無理やり押し入られ、たぶん色々なとこが裂けて血が流れた。当然だけど涙の滲むほど痛くて、足をじたばたさせて嫌がったら頬をグーで殴られた。ショックで放心している隙を突いて、一気に腹の奥まで割り裂かれた。お腹が重くて苦しくて、中で動かされる度に込み上がってくる悪心を必死で堪えた。  現実感が急速に喪失する。周りの場景から色が抜け落ち、水中で聞くように周囲の音がくぐもっている。自分が自分でなくなったようだった。この時、俺は確かに一度死んだのだ。心も体も、修復不可能なほどズタズタに引き裂かれた。いつしか涙も出なくなった。      二日後、帰ってきた両親には喧嘩をしたと嘘をついた。幸い、見える場所に怪我は少なかった。しかし、なぜだか義父には即刻バレた。おそらく兄が報告したのだ。俺も、母には絶対に知られたくないが、義父にだったら知れてもいいかと思っていた。実の息子である義兄のことを、一言でも叱ってくれるかと期待していた。  だが、現実は想像よりもずっと冷酷で、非情なものである。 「男のくせにみっともないと思わないのか」  義父に呼び出されて浴びせられた言葉がこれだ。絶望で胸が潰れそうになった。 「学校にも行っていないくせに色恋にばかり精を出しおって。どうせお前が誘惑したんだろう、この女狐め」 「ちが、俺は」 「口答えをするな。全く、あの親にしてこの子ありといったところだな。私は色気のある女は好みだが、色気のある男など気色悪いだけだ。無用の長物だ。面倒事を持ち込みおって、全く。忌々しいことこの上ない」  警察や裁判所に訴えても意味はないと脅された。金と権力に物を言わせて揉み消してやるぞ、と。それから、そもそもの話だが、男が男を犯すことを罰する法律もないらしい。法律が守ってくれるのは、男に犯された女だけなのだ。  警察や裁判所に訴える以外の方法であっても、今回の件を公にしようとするならすぐさま母と別れてやる、と釘を刺された。
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