シオンを咲かせて

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 ここがわたしの家であることを、あなたは知らないでしょう。  あなたは、わたしの家の前を通ったことがありますよね。二階の部屋の窓から見たことがあって、その数秒間だけ、無防備なあなたの姿をひとりじめできたのだと思うと、ちょっとした優越感と、それと同じ程度の自己嫌悪を覚えたものです。  はじめてあなたを知ったのは中学。  入学するなり綺麗な男子がいることは話題になりましたし、わたしの瞳にも否応なくその存在は映りました。耳をそばたてずとも、あなたの情報は聞こえてきました。凡庸の価値観と退屈な性質、それにおとなしいを絵にかいたような見た目のわたしは、できすぎた世界の住人に隔たりを感じるのです。あなたは、その最たるひとりでした。  ですが、二年生になり、わたしはあなたとクラスメイトになってしまったのでした。それは運にほかならず、物理的な距離が縮まったところで、勝手に推し量った格差が埋まるとは思ってもいませんでした。  しかし、なんの因果でしょうか。二学期の席替えで、わたしは、あなたの後ろの席に。残暑から肌寒さを感じる頃合いにかけて、その背中を見つめてしまうことになり、はたして芽生える感情もありました。  とうぜん、会話をかわす勇気もなくて……。言葉をまじえたのはプリントをまわすときや席の移動時くらい。それも数える程度で、ほとんどがたった一言。  あなたが振り返るさい、端整な顔立ちにそなえられた女性的で澄み切った明眸(めいぼう)が、この不純な視界をとおして刹那にわたしの心を動かすのです。胸の核をつかまれる痛みと悦に、わたしは自分の浅薄や短慮を痛感するのでした。あなたの何を知るわけでもなく、その幻想と目前の質感にときめいた、わたしという人間に。  あれは九月の終わり、とある日の休み時間でした。  わたしは、いつものように自席にぴたりとひっつき、あなたの背中の後ろで文庫本をぱらぱらと。そんなときのことです―― 「シオンが好きだ」  やにわに響いたひとことに、一瞬ですが確実にわたしの心臓はとまりました。わたしの名前は『鈴川紫苑(しおん)』。シオンに結びついた簡素な二文字――スキ――が、わたしを殺しかけたのです。  ひとつ大きなとくんから、短いはずがやけに長く感じられた停止を経て、心臓が早鐘を打つ。その中で、平静の様子をくずさぬようつとめながら、わたしはあなたのほうへと耳をかたむけました。  そのあとの話の流れで、いつものようにあなたの周囲に群がる女子のひとりに、「好きな花はなあに」と問われていたことがなんとはなしですがわかりました。安堵とともに、ちょっとだけ不可思議な気持ちになって、まだ心臓は音をとめてくれませんでした。  それにしても、シオンが好きというのは意外でした。不思議、とも言えます。母の影響で、わたしは小さなことから、おうちの庭でガーデニングをたしなんできました。自身の名でもあり愛着はありましたが、どちらかといえばシオンには地味な印象を持っていて、もっとも好きな花としてあえて選ぶようなものではない気がしたのです。  しかしながら、好きも嫌いもなかった自分の名前が、やたらと大切に思えたことが嬉しくて、その名をつけてくれた両親に、いまさらながらはじめての感謝をしました。  そう小さくてかけがえのない宝物を手に入れたりと、ささやかな光と青い香りに心踊らされた日々も、あっという間――。三年生になり、あなたとはクラスが離れてしまいました。  それからというもの、あなたに近づけたのは月に一度あるかないかだったでしょう。わたしにとって、あなたと廊下ですれ違う一瞬が、まばゆい世界を得られる貴重な時間でした。体育祭や球技大会のさいは、遠くからあなたに視線を注ぐばかりでした。わたし気持ち悪いなあ、と自分を卑下しながらも、登校時や下校時、集会で体育館に集まるときなどには、自ずとあなたの姿を探してしまうのです。近づけば、あなたの声を探してしまうのです。  いちど近づきすぎたために、ちょっと離れたくらいで、わたしは不満を覚えていました。もっと多くあいたい。そばにいたい。と、ちょっと欲張りになっていたのです。けれども、それだって終わりがきます。  そう、卒業です。  皮肉にも優等生だったわたしは、学年上位ながら秀才にはわずかながら及ばない位置にいたあなたとは、異なる高校を選択することになりました。  入学を手前に控えた春休みは、各々が不安と期待を抱えながら、儚いという症状を思い知る日々だったのではないでしょうか。四方に空虚があって、届かないものに手を伸ばす感覚。それを切ないと表現するしかなくて、あわい空気が愛おしくもあって、わたしといえば音や香りに敏感になって、たびたび胸がくっとなるのでした。  そして、たどたどしくも、あざやかな色に世界が染まる、不慣れな四月がやってきます。  新生活がはじまって間もなく、思いがけないことが起きました。二階の自室で目覚めたわたしは、いつものように寝ぼけまなこでカーテンを開きました。  窓の外、眼下に見えるささやかな庭の手前には、上部が黒い柵の低い塀があります。家の正面の塀で、歩道のほうから庭が覗けるのです。  その手前の歩道に、見知った制服姿があって、わたしは目をこすりました。うかがえたのは、わたしの家からほど近くにある高校のブレザーでした。登校時間にはまだ早く、朝練なのだろう、えらいなあ、たいへんだなあ、と文化部のわたしは他人事のように思ったものです。  けれども、目のかすみが晴れてきて、そのシルエットと挙動に見覚えがあるような気がして、目を凝らし、その頭頂部を認識し、そして横顔をはっきり視認したとたん、後ろから冷や水を浴びせられたかのように、わたしは一瞬で目を覚ましました。  あなたの選んだ高校は、わたしの家から十五分程度の場所。あなたが降りるはずの最寄りの駅から学校までの間に、わたしの家があったのです。  けど、駅から学校へ行くなら、街中にある通りを進むのが普通です。ほとんどの生徒が、最短距離であり平坦な、その道を選ぶでしょう。  では、あえて人通りの少ない、こちら側の道を選ぶ意味はなんでしょう? 徒歩で駅からまっすぐ学校へ行くなら、二十分くらい。しかし、わたしの家の前を通るとなれば、どのルートをたどっても三十分はかかるでしょう。  ここいらに住まう身として、なかば無理やり利点をあげるとすれば、近くに山が望めること、吹きおろす風の心地よさ、人や車の喧騒(けんそう)が少ないことくらいでしょうか? 結局のところ、答えはわからずじまいです。  あなたを目撃した翌日のことです。  あさはかにもわたしといえば、早起きをしてしまいました。正確にいえば、目が冴えて眠れなかった。ベッドの中で目をつむり、中二の二学期を中心に一方的にこしらえたあなたとの思い出が、オートマティックにまぶたの裏で放映されていたのです。  しかし、あんのじょうとでも言いましょうか……。高まった期待を裏切るよう、その朝、あなたは現れませんでした。いつかいつかと窓の前にへばりついていたものですから、遅刻しかけてしまいました。新しい学校でもすでに優等生扱いのわたしでしたので、それはないしょのお話です。  その日から、わたしは同じ自問を繰り返しました。  あれは幻だったのではないか? もしや夢? 朝に弱いわたしですから、もしや夢と現の境目が曖昧になって、勘違いしたのではないか? そんなふうに思ったのでした。  でも、いつか。いつか、またあなたが。幻でもいい……。と授業中、机にほおづえをつき上の空でそんなことを考えていた、まいど短慮で素朴なわたしのちっちゃい脳みそに、ふっと滑稽な考えが浮かびました。  そうだ。庭にシオンを――。  もし、あなたが気分で道を選んでいたとしたなら。もしも、通りかかった道ぞいに、好きな花が咲いていたなら。  そのときは、まだ四月でしたから。苗なら、いま植えつければ秋には花が咲くはずです。  しかし、夏のある日のことでした。  わたしは事故に遭ってしまいました。  それからというもの、わたしは……。
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