お前の心を殺しましょう。

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お前の心を殺しましょう。

私は一部の記憶が欠落している。理由は分からないけど、どうしても思い出せない過去があった。私に暴力を振るってくる男の姿を見たことがあるような気がしたり、男の声を聞いたことあるような気がしたりしたのは、それが原因なのだろうか。思い出せない、欠落した記憶の中に、男は存在しているのだろうか。私と男は何かしら関係を持っていたのだろうか。どうにかして思い出そうとしても、脳がそれを拒否しているかのように何も見えてこなかった。もうこのまま何も思い出せずに、私は目の前の男にひたすら弄ばれてしまうのかもしれない。訳も分からないまま、死ぬまでずっと。 吐き気が治まり始めた時、男に肩を押されて壁に押さえつけられてしまった。また煽られる恐怖心。今度は何をする気だ。怯える私の視界に、黒い物体が映り込んだ。それが何かを理解した瞬間、私は声にならない声を上げていた。激しい動悸がする。ついに男は、この部屋に散らばっていた物騒なものに手を出してしまった。 ゆっくりと休む間すら与えてくれない男は、手に持った黒い物体、拳銃を私の額に押しつけて不敵に微笑んだ。その表情が私は嫌いだ。全て自分の思い通りの策略だと言わんばかりのゲス顔が、私は心の底から嫌いだ。その顔面に唾を吐きかけてやりたくなるけど、無論そんな気力もなければ余裕もない。殴られ続けて、辱めを受けて。もう心も体も疲弊しきっていた。自分がこんなにも脆い人間だったなんて。此奴に対して強気な態度を示せていた少し前の自分を褒めてやりたい。 男が引き金に指を添えるのが分かった。動悸が増す。息切れがする。その引き金を引かれてしまったら、私は。頭の中に死の文字が無数に浮かび上がり、私の脳内を埋め尽くした。死死死。やめて。嫌だ。まだ私は、生きたい。だから、お願いだから、殺さないで。やめて。死にたくない。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。 何に対して謝っているのか分からないまま、私は心の中で叫ぶように謝罪の言葉を述べていた。それほどまでに、拳銃を突きつけられていることが恐ろしい。首に手を添えられるよりもずっと。殴られるよりも蹴られるよりもずっと。恐ろしい。 さっきから涙が止まらない。止まってもまたすぐに溢れてきて、酷く目が痛かった。泣いても泣いても、苦しんでも苦しんでも、男は私を痛めつけるのをやめてくれない。満足してくれない。今だって楽しそうに笑ったまま。「俺が引き金を引いたら、脳をぶち抜かれて即死だな」どうする? おかしそうに首を傾げてみせる男は、完全に狂っていた。今更だ。此奴を正気に戻させるなんて、私の力では到底できやしない。 それでも私は、狂っている此奴に対して命乞いをしていた。死にたくないと心が訴えている。まだ死にたくない。まだ生きたい。「やめて。引かないで」私を、殺さないで。震える声を上げる私を見て、男は自分の唇をペロッと舐めた。狂っていたとしても、此奴は顔面が整っている。だからか、その行動に男の色気を感じてしまった。舌舐めずりを色気だと思ってしまうなんて、私も随分とおかしくなっているようだ。此奴に影響されてしまっているのだろうか。大嫌いでムカつく此奴なんかに。 「引かないでって言われるほど引きたくなるんだよな」 あぁ、そうだ。此奴はこういう奴だった。抵抗すればするほど、嫌がれば嫌がるほど、快感を与えてしまう。自分が私を支配している快感。自分が私を痛めつけている快感。此奴はマゾヒストではなく、凶悪なサディストなんだ。これもまた今更で、どうにもできないことだった。抵抗せずに、嫌がらずに耐えるか、とことん嫌がって此奴を満足させるか。その2択しかない。快感なんて与えさせたくないのに、苦痛と恐怖を味わってしまった今は、それに抗えなかった。感情を殺せば、此奴も飽きてくれるのかもしれないけど、それだともっと酷い仕打ちをされそうで。結局どっちを選んでも痛めつけられるのがオチだった。救いはない。 私は無意識に男を押しのけようとしていた。だけど全然力が入らず、大袈裟に言えば手を添えているだけの状態で。銃口は私の額に押し付けられたまま。どうしよう。怖い。死ぬ。殺される。此奴を欺く方法が思いつかず、考える余裕すらなく、私はただ恐怖に慄いているだけだった。冷や汗が出てくる。動悸がする。体の中で太鼓が鳴っているような衝撃。内側から強く殴られているような感覚。涙が頬を伝う。それを拭うこともできない。 目の前の男は恐怖を煽るように、ゆっくりと、じわじわと、引き金を引いていた。いつ飛び出すか分からない弾に、私は過呼吸気味になっていた。息がうまくできない。ドクドクドクと心臓が早鐘を打ち、全身が熱くなった。男の引き金を引く指から目が離せない。そして。「さようなら」男が楽しそうにそう言った瞬間、ついに引き金が引かれた。頭の中で乾いた音が響いた。 体の中心部から熱いものが出てきた。それが失禁だと分かるまで、数秒かかってしまった。私は生きている。死んでいない。それをこんな形で認識することになるなんて。我慢していたものが全部溢れ出すように、大粒の涙までもが流れてきた。恐怖。安堵。屈辱。ごちゃ混ぜになった感情が、私の顔を、姿を、醜くさせていた。 「簡単には死なせないって言っただろ」 その言葉が、まだお前には苦しんでもらうという意味に聞こえて、私は大いに絶望してしまった。引き金を引いたように見せかけて、本当は引かなかった目の前の男。私の反応を楽しみながら恐怖に追い込んだ此奴は、本当に最悪な性格をしていた。苦しくて嫌で逃げたくて、涙が止まらない。嗚咽が漏れる。私は鼻を啜りながら男の前で号泣してしまった。此奴の前では大泣きをしたくないと思っていた決意が簡単に鈍り、泣き叫びたい衝動に駆られた。 やめてください。ごめんなさい。何でもしますから。止まらない涙を拭いながら心の中で訴える。喋れなかった。涙が邪魔をして喋れなかった。もうこんな思いはしたくない。苦しいのも辛いのも痛いのも嫌だ。逃げたい逃げたい逃げたい。もう何もしないで。私に手を加えないで。壊れてしまう。自分が自分じゃなくなってしまう。 目の前の男に関することで忘れていることがあるなら、少しでも早く思い出したかった。私を追い込む理由がそこにあるのなら、私は思い出さなければならなかった。私の過去は何だ。私は男に何かしたのか。ここまで狂わせてしまうようなことを、私はしたのか。何だ。何をした。私は一体何をした。此奴に、何をした。 男が混乱する私に向かってある言葉を落としてきた。「まだ思い出さねぇの? お前が俺にしたことを」それとも何? 思い出したから号泣してんの? それは男の記憶の中に私がいると断言できるものだった。私は此奴と関わっていた。そしてそれを全て忘れてしまっている。此奴の名前さえも、忘れてしまっている。だけど男は私の存在を知っているし、私の過去を思い出させようとしているみたいで。そのために苦痛を味わわせているのだろうか。此奴はそれで私が過去を思い出すとでも思っているのだろうか。今のところ、私は何も思い出せていない。思い出せる気がしない。 泣きながら沈黙する私に、男は諦めたように溜息を吐き出した。それからそこにあった光沢のあるロープを手に取ると、再び口角を吊り上げて私に近づいてきた。「思い出せないなら、お前が俺にしたことをしてやるよ」男はロープを半分の長さにまとめ、それを私の首に巻いてきた。抵抗しようとするけど、当然男には敵わなくて。男はリングに紐がついたキーホルダーを付ける時みたいに、できた輪の中にロープの両端を入れて引っ張った。簡単に首が絞まる仕掛け。男が力を緩めれば、それに従うように私の首に巻かれたロープも緩む。完全に命を握られた瞬間だった。 退けようと思えば退けられる。だけど、それをしようとしたところで意味がない。男に気づかれてまた首を絞められるだけだ。男が目を離した隙に素早く退ける。その方法も思いついたけど、そんなことを男がさせてくれるわけがない。だってこういう時、私だったら間違いなく手を拘束するから。そう考えたところで、私はハッと我に返った。今、私は何を思った。何を考えた。私だったら間違いなく手を拘束する。それじゃあまるで、過去に私がこれと似たようなことをしたことがあるみたいじゃないか。もしくは見たことがあるみたいな思考。 お前が俺にしたことをしてやる。男は確かにそう言った。それが本当なら、私は男に対してロープで首を絞める行為をしていたのか。そんな、まさか。ありえない。私が今自分がされていることをこの男にしていたなんて、そんな話、信じられるわけがない。過去に私がしていたと嘘を言って、私を動揺させているだけだ。絶対にそう。拳銃を突きつけた時と同じで、私によくない先入観を抱かせているだけ。他人にこんな酷い仕打ちをしていた過去があると、私に思い込ませているだけ。それで私を追い詰めて面白がっているんだ、この男は。 「これでも思い出さない? 早く思い出せよ。思い出してくれた方が、今以上に痛めつけ甲斐があんだよ」 なかったことにはさせねぇから。絶対思い出させてやる。男は目をギラつかせてロープを引っ張った。また絞められる首。苦しくなる呼吸。どうしてそんなに過去を思い出させることに執着しているんだ。私がそれを思い出した方が痛めつけ甲斐があるだなんて。一体私は何を忘れているのだろう。それは思い出していい過去なのか。それとも思い出さなければならない過去なのか。私は此奴に何をしたんだ。本当にこんな、ロープで首を絞める行為をしたのだろうか。 頭が痛い。ハンマーか何かで強く殴られているような感覚。息も苦しくてどうにかなってしまいそう。下半身は失禁したために汚くなり、湿った服が肌に張り付いているのがとても気持ち悪かった。嫌な臭いも鼻をつく。空気も汚ければ、私自身も汚いという最悪すぎる現状。ロープを掴んで首を絞めるそれを緩めようとするけど、意味がなかった。苦しい。息が苦しい。当たり前のことを当たり前のように頭の中で繰り返すばかりで、苦しさから解放されることはなかった。 意識が朦朧としてきた頃、ようやく男が力を緩めた。激しく咳き込む私を気にも止めず、男は再びそこら中に散らばる物騒なものの中から何かを見つけ出し、楽しそうに、だけど不敵に微笑んだ。その手に握られているのは手錠。ついに私も拘束されてしまう。抵抗してその辺にある道具で殴り倒そうとしても、全部綺麗に交わされてしまうだろう。そもそも首に巻かれているロープがそれを許してはくれない。もしかしたら、男は私に簡単に武器を使用させないように、最初に私を暴力で弱らせてから、後でゆっくりとそれらを使って嗜む計画でも立てていたのかもしれない。やられた。 荒い呼吸を繰り返す私の背後で身を屈めた男は、無抵抗な私の両手首を冷たすぎる手で掴んで耳元で囁いてきた。「これもお前が俺にしたことだから」そして簡単に手錠をかけられてしまった。これも私がしたことなのか。何も覚えていない。思い出せない。なぜか頭痛が酷くなる。何かを思い出し始めているのかもしれないけど、脳がそれを思い出すことを拒否しているかのよう。言わば、現実逃避をしているようなもの。体が過去を思い出すことを拒否している。それほどまでに、思い出したくない、思い出してはいけない過去なのか。私と此奴の間で起きたそれは。 「こうやって俺を拘束してさ、お前は狂ったように殴ってきたんだよ」 女の力でも殴られ続けたら痛いし屈辱的だった。男は何の感情も読み取れないような無機質な声を上げ、私の背中を強く蹴ってきた。一瞬だけ息が止まる。また呼吸が苦しくなった。蹴られた反動で床に倒れてしまいそうになっても、ロープを引っ張られ容易にそれを阻止される。首に圧力がかかり、更に苦しさが増した。ロープと首の間に指を入れて隙間を確保したいけど、拘束されてしまった今となってはそれができなくて。専ら絞められ続けるだけだった。 死にそうになるけど、男は死なせてくれない。意識が飛びそうになる寸前で力を抜き、私の意識を覚醒させるのだ。簡単には死なせない。本当にそれを実行している。私が過去を思い出しても、それは継続されるのだろう。過去を思い出したことで男の暴力が酷くなるのなら、このまま思い出さない方がいいんじゃないか。もし思い出したとしても、その素振りをしなければいつか飽きてくれるんじゃないか。そう思うけど、それではいけない気もしている。男の記憶の中の私は、見るからに悪女だ。ロープで首を絞め、拘束をして殴り続ける。そんな残酷な仕打ちをしていたことを、私は忘れたままでいいのか。思い出して償わなければならないんじゃないのか。きっと私は、何度謝罪しても許してもらえないようなことをしたのだろう。男の行動がその証拠だ。私は過去を思い出して、過去の極悪な自分の所業と向き合う必要があった。 忘れた記憶を蘇らせようとするけど、頭痛が増すだけだった。記憶を呼び覚ますことを脳が恐れている。厳重な鍵がかけられた記憶。それでも私は思い出す必要があった。男に心から謝罪するためには、そうするしかないんだ。今自分がされていることと同じようなことを、この男にしていた過去が確かにあるのなら。こんなに苦しい思いを男にさせていたのなら。 「思い出せないから、思い出させてよ」 男に頼るのは、縋るのは、正直嫌だった。だけどこうでもしないと、自分1人の力では思い出せそうもなくて。もしかしたら、私自身も思い出すことを恐れているのかもしれない。自分がどんな所業をしたのかを知るのが怖いのかもしれない。それでも私は、忘れた記憶を思い出したかった。もし私が記憶を取り戻したことで、私も男も救われるのなら一石二鳥だから。狂った歯車の元凶は、きっと全て私なのだろう。私はそれを、元通りに戻せるだろうか。 男は懇願するように小さな声で訴えた私を無視するように、またそこら中にあるものの中から何を探し当てた。「火傷は痛い。苦痛」意味深にそう言った男は、私を振り返るなり手に持ったものを見せびらかした。それを見た瞬間、私はまた激しい頭痛に襲われた。そして一瞬だけ脳内にある場面が映し出された。今男が手にしているもの、小型ガスバーナーを持った女が不敵に微笑んで、拘束された誰かの手にそれを近づけている場面。女はどこか、私に似ていた。 鳥肌が立つ。これは、忘れていた記憶の一部だろうか。小型ガスバーナーを持って不敵に微笑んでいた女は、確かに自分に似ていて、拘束されていた人は今の私と同じような状況だった。男の言っていることが本当だとすると、拘束されていたのは此奴なのだろうか。私は本当に此奴にこんな仕打ちをしていたのか。そんな、まさか。信じられない。どうしてそんなことを。 頭に浮かんだ信じられない光景に心拍数が上がった。それと同時に、これから男が何をするつもりなのかが手に取るように分かってしまい、私は無意識に首を左右に振っていた。思い出させてと言ってしまったのが悪かったのかもしれない。いや、そうでなくとも、男はきっと私がしたことを再現するつもりだったのだろう。一つ一つの行動に全く迷いがないから。ただ私を苦しめることだけを考えているようで。復讐。突然その2文字が私の目の前に突きつけられた。遅い。今更それに気づいたって、もう遅い。後の祭り。 男は私の頭の中に浮かび上がった女と同じ表情で私に近づき、手錠をかけられた手に触れた。心なしか手の冷たさが増しているようで。それは男の心が冷めきっていることを体現しているかのようだった。男が触れた箇所から徐々に体温が奪われていく錯覚に陥る。だけど心臓はドクドクと嫌な音を立てていた。これから起こるかもしれない悲劇に恐れを抱いている自分がいて。その場から逃げたくても、足が竦んだように動けなかった。拘束されている手では抵抗のしようがない。冷や汗が背中を伝い、私は速くて荒い呼吸を繰り返していた。動悸が治まらない。それはやめて。そう言いたいのに、ただ息が漏れるだけで言葉にならなかった。 「こういうの、火炙りって言うんだっけ」 叫び出したくなるくらい熱くて痛かったな、あれは。男がガスバーナーの火をつけたのが分かった。僅かな熱風をすぐ近くで感じる。もうそれだけで熱くて、私は自然と涙が出てきてしまった。これが今から、私の手に当てられると思ったら、震え上がりそうなくらい怖い。恐怖に慄く私のことなんか露知らず、男は躊躇うことなくガスバーナーの火を近づけてきた。指先がじわじわと熱くなるのを感じる。それは少しずつ痛みに変わっていった。熱い。痛い。歯を食いしばりながら指先を動かし、どうにかしようと無意味な試みをする私。脂汗が出てきて、苦痛の声が漏れた。痛すぎて指の感覚がおかしくなってしまいそう。 男は黙って私の指を炙り続けていた。何かに取り憑かれたかのようにひたすら。私はこれほどまでに男を追い詰めていたのか。私が男にしていたらしいこととほぼ同じことを、一瞬頭に浮かんだあの女、極悪な私とほぼ同じ表情で実行できるようになるほど。私はこの男にとんでもないことをしていたようで。まだはっきりと思い出したわけではないのに、とてつもなく胸が苦しかった。痛かった。何度謝罪しても何度後悔しても、男の怒りが冷めることなんて一生ないのだろう。それくらいのことを、きっと私はしてしまっている。 叫び出したくなるくらい熱くて痛い。本当にその通りだった。意味もなく叫んで少しでも痛みを忘れたくなる。男は私に火炙りをされて、叫んでしまったのだろうか。思い出せそうで思い出せない記憶。ここまでされてもまだ思い出せないなんて、私の頭は一体どうなっているのだろう。もっと何か衝撃がほしい。指を火炙りにされているような激痛ではない別の衝撃。それがあれば、忘れている全ての記憶を、過去を、思い出すことができそうなのに。 指の激痛に悶絶しながらそんなことを考えている私の耳に、男の楽しそうな声が聞こえた。「我慢しなくていいから叫べよ」言われて私は更に唇を噛んだ。絶対叫ばない。叫びたくない。此奴の思い通りにはさせない。何も言わずに耐え続けていると、男はつまらなさそうに溜息を吐き出し、ガスバーナーの火を消した。それでも痛みが引くことはなく、私はその痛みに慣れるまで耐えるほかなかった。冷やすものがほしい。今すぐ冷水にこの指を浸してしまいたい。無論、叶うはずもない願い。火傷の跡が酷く残ってしまうことになるだろう。自分の指を見るのが怖くなってしまいそうだ。 「私、琉唯のことが好きなの」 「え?」 男が突然、誰かの真似をするように口を開いた。真似といっても、声音は何一つ変わらないから、とても不自然に感じるそれ。一体誰が放った言葉を喋っているのだろう。それから、るいという名前。その名前を、私はどこかで聞いたことがある。どこか懐かしいような、切ないような、胸がドキドキするような、そんな響きを感じた。好きな人の名前を言ったり聞いたりした時に感じるような胸のときめき。恋する気持ち。るいという人に、私は恋をしていたのだろうか。もしそうだったのなら、好きな人すらも忘れてしまっているなんて。最低だ。 男はガスバーナーを手放し、私を壁に押さえつけた。振動のせいで指の痛みが増し、苦悶の表情を浮かべてしまう私の顎を、男が持ち上げる。目をそらすな。最後まで聞け。そう言われているような威圧感のある目と視線が合わさった。その瞬間、私はなぜかドキッとしてしまった。恐怖のドキドキではない。もっと別の、体が熱くなるような、恥ずかしさを感じるような、そんなドキドキ。胸の高鳴り。なんだこれ。これじゃあまるで、さっきまで私を痛めつけていたこの男にときめいてしまったみたいじゃないか。自分自身の心境の変化について行けないまま、私は指の痛みすらも忘れてただひたすらドキドキしていた。目の前のムカつく男に、ドキドキしてしまっていた。 「どんな琉唯も大好きだよ。痛みに苦しんでたり、何かに怯えてたりしてる琉唯なんか特に」 男の言葉が私の頭に木霊した。どこかで聞いたことがある言葉。それはどこ。誰の言葉。ドクドクと心臓が鳴る。ズキズキと頭が痛む。ヒリヒリと指も痛む。息切れがして、また変な汗が噴き出した。脳内で全ての記憶がごちゃ混ぜになり、わけが分からなくなる。だけどそれは徐々に形になろうとしていた。その度に頭痛が増し、酷く息切れがした。知りたい。知りたくない。思い出したい。思い出したくない。相反する2つの意見がせめぎ合い、私は過呼吸気味になってしまった。呼吸を乱す私を気に止めることなく、男は追い討ちをかけるかのように続けた。 「もっと苦しんでよ琉唯。私は苦しむ琉唯を見たい。琉唯は私のこと好き? 私は好き。大好き。愛してる。琉唯も同じだよね。当然だよね」 「あ、やめ」 「琉唯聞いて。今日ね、性に関する講話があったんだよ。そこでオーラルセックスっていうのがあるのを知ったんだ。せっかくだからさ、私の舐めて気持ちよくしてよ」 「やだ、やめて」 いつの間にか大粒の涙を流しながら、私は男の言葉攻めに首を左右に振っていた。全部、全部、思い出した。思い出してしまった。男が言っている言葉は全部、私が琉唯に対して言ったことだった。そして琉唯というのは、今目の前にいる彼のことだった。忘れていた記憶が一気に思い出され、頭が酷く混乱する。私は琉唯のことが好きだったんだ。異常なまでに。混沌とする中、その事実だけがはっきりと理解できた。
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