自分の過去を知りましょう。

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自分の過去を知りましょう。

私は君に恋をしました。 *** 薬師神琉唯(やくしじん るい)は、高校入学当初から有名だった。芸能人みたいなかっこいい名前と、それに負けず劣らずの整いすぎた容姿。そして、クールでミステリアスな性格。イケメンの名にふさわしい彼は、意図しなくとも周りの女子を虜にしていた。惚れさせていた。 そんな彼に、私は興味関心なんてなかった。女友達がかっこいいかっこいいと騒ぐ中、私はそれに適当に頷いていただけ。確かに容姿には優れているけど、彼はとても無愛想だ。全然喋らないし、喋っても盛り上がりに欠ける返答をされるだけ。それが彼の致命的な欠点だと思う。そこがいいという女子もいるようだけど、私にはその辺のことはさっぱりだった。 薬師神。神君。琉唯。琉唯君。無愛想な彼は、いつしかいろんな愛称で呼ばれるようになり、クラスメートからも慕われるようになっていた。その様子を教室の隅の方で眺めていた私は、心底不思議だなと思った。愛想が悪いのに慕われるのはどうしてなのだろうと。無愛想。それが彼の性格だとみんな理解しているからだろうか。笑わないし喋らない。無愛想で寡黙な奴。私の中の薬師神琉唯の印象はそれだった。可もなく不可もなくと言ったところ。特別仲良くなりたいとかは思わなかった。彼とは普通のクラスメートでいい。それ以上は何も求めていなくて、今後もただのクラスメートのままだろうと信じて疑わなかった。 そんなある日のこと、仲のいい女友達が薬師神に告白すると宣言した。多くの女子が彼に告白し、尽く振られている中、自分もその波に乗るようにして告白するなんて、自殺行為じゃないだろうかと思った。どこからそんな自信が湧いてくるのだろう。毎日のように告白される薬師神の身にもなってみたらどうだろうか。彼奴は見た目からして女遊びをするような奴じゃない。好意を抱かれて嫌な気はしないだろうけど、毎回毎回断るのに面倒臭さを感じているんじゃないだろうか。断り方もきっと、無愛想そのもの。薬師神に振られてしまった子は、大体みんな涙を流している気がするから。 薬師神が私の友達のことを好きかどうかは分からない。可能性も多分低い。そもそも彼は恋愛に興味がなさそうだった。そんな手強い相手に告白したって、見事に玉砕するだけだろう。そう思っていても、私に告白を止める権利はどこにもなくて。頑張って。うまくいくといいね。ありきたりな言葉で彼女の背中を押す私は、とても残酷なことをしているみたいだった。彼女自身も、きっと結果は分かっているだろう。それでも自分の気持ちを伝えようとするその勇気を私は讃えたい。自分にないものを彼女は持っていたから。 その日の放課後、私は友達に教室で待っていてほしいと言われ、大人しく自分の席に座っていた。結果報告をしてくれるのだろう。笑いながら報告するか、泣きながら報告するか。どっちかなんて、もう。「ダメ、だった」分かりきっている。泣きながら教室に戻って来た彼女は、私に抱きついてきた。頑張ったね。私はそんな簡単な言葉でしか、彼女を慰めることができなかったのだった。 多くの女子が薬師神に告白し、玉砕していく。告白して振られた女子に同情する人はたくさんいたし、その対象の薬師神に同情する人も確かにいた。私はその1人だった。モテまくる薬師神に同情してしまった私は、彼と偶然2人きりになった教室である提案を持ちかけていた。それは、私が彼女のふりをしてあげるというもの。我ながら上から目線だったと思う。薬師神の彼女が私なんかで務まるはずがないのに。女子に白い目で見られてしまうだけだ。自ら危険な渦の中に飛び込んでいるだけ。友達のことを自殺行為だなんて思った自分が恥ずかしい。私の方がよっぽど自殺行為じゃないか。 私の提案を聞いた薬師神は、胡乱な表情で私を見てきた。当然だ。彼女のふりをしてやってもいいなんて、そんなことを言われて簡単にはいと答える馬鹿なんていないだろう。形だけの彼女だとしても、何かの拍子で噂が広まってしまったら、私の立場も薬師神の立場もなくなる恐れがある。私がもっと薬師神に見合う容姿だったら何の問題もなく受け入れてもらえるだろうけど、如何せん私は平凡な女子高生だ。可愛いわけでも美人なわけでもない。本当に普通すぎる女。どこにでもいるような女。そんな女に偉そうな口を叩かれたって、薬師神みたいに恋愛に興味のないような奴が乗るわけがない。果たして、薬師神の答えは。「なんか企んでんの?」怪しむような疑問だった。 変わらず胡乱な表情で、薬師神は首を傾げてみせた。私はそれに首を左右に振る。「何も企んでない」私が薬師神を好きになることなんてないから、好きに利用してもらっていいよ。好きに利用なんて、薬師神にしか言えない。此奴はその辺の馬鹿な男共と違ってむやみやたらに手を出すような奴じゃないと思うし、そもそも私みたいな女に手を出すような変に欲張りな奴はいないだろう。それでも、ほとんど喋ったこともないような薬師神のことを心のどこかで勝手に信じていて。だからこそ、彼にしか言えない言葉だった。薬師神のことなんか何も知らないのに見た目だけで判断して信頼するなんて、本当に単純で馬鹿な奴は誰だって話。 薬師神は私を凝視して、それから息を吐き出した。「瀬戸がいいならいいよ」俺の彼女役しても。彼はぶっきらぼうにそう言うなり、私を置いて教室を後にした。なんだか仕方なくと言った感情が見えた気もするけど、私の提案を呑んでくれたことは分かった。これで彼の負担を少しは減らせるだろうか。 告白された時、彼女がいるからとか言えば相手をそんなに傷つけなくて済む。誰なのかと聞かれたら、心置きなく私の名前を言えばいい。それを聞いた女子から何か仕打ちがあっても、私は別に何とも思わない、と勝手に思っている。実際のところは分からなかった。お前のこと知らないだとか恋愛に興味ないだとか言って、刃物でぶっ刺すような言葉をズバズバと並べるより、そっちの方が薬師神にとっても相手にとってもいいんじゃないかと思う。薬師神がどんな風に断っているのかは分からないけど、残念ながら何でも正直に言っているその姿しか思い浮かばなかった。 薬師神との偽装恋愛が始まって数日が経ったある日、それは起こった。彼に告白して、彼女がいるからと断られたらしい女子が、その彼女が誰なのかを徹底的に探索し始めたのだ。薬師神は名前は言わずに、ただ彼女がいるとだけ告げたようだった。私を気遣ってくれたのだろうかとも思ったけど、それはあまりにも自意識過剰のように思えてしまい、慌てて脳内からその考えを振り払った。 薬師神は誰に何と聞かれようと口を割らない。当然私もそれを貫いている状態。薬師神の彼女が誰か知ってるかと聞かれても、分からないと肩を竦める行為をするだけ。誰も私が偽彼女として薬師神と偽恋愛をしているとは思っていないだろう。聞いてきた女子は私の言葉を疑うことなく信じてくれた。女子にモテて影響力のある薬師神と、誰も知らない2人だけの秘密を持っているみたいでなんだかこそばゆかった。 薬師神のことが好きだった友達は、彼に彼女がいるという話を聞いた時、とても美人な彼女なんだろうね、とまるで自分のことのように喜んでいた。告白して振られた相手の恋を素直に認めて応援する友達には思わず舌を巻いてしまう。もちろん薬師神の偽の彼女を演じているなんて言えないし、言うつもりもなかった。また適当に、そうだね、と頷くだけ。騙しているみたいで心苦しいけど、こればかりは許してほしい。 薬師神の彼女が誰なのかはっきりしないまま、その話題は徐々に薄れていった。それと入れ替わるように、薬師神には彼女がいるから告白しても意味がないという話が広まり、彼に告白する人は激減した。それでも諦めきれない女子数人が協力して取った行動は、薬師神の後をつけて本当に彼女がいるかどうかを見張ること。いるならいつかどこかで彼女と思える人と歩いているはずだと考えたらしく、その光景を見るまでは薬師神に彼女がいる話は信じないようだった。好きな人の言葉はすぐに信じてしまいそうだけど、どうやらそうじゃない人もいるらしい。自分の目で確かめないと気が済まないタイプのようだ。 後をつけられていることには薬師神もすぐに気づき、1日だけ一緒に帰ってと要求してきた。好きに利用していいと言ったからには断るわけにはいかなくて。無論、断る理由も特になかった。私はひたすら彼女役を真っ当するだけ。一緒に帰るなんて簡単なことだ。並んで歩いているその様子を、彼のことを追いかけているであろう女子たちに見せつけたらいいだけの話。それで私の役目は終わりだ。 約束通り薬師神と一緒に帰宅した次の日の放課後、私は例の女子に誰もいない教室で絡まれた。予想していたから別に驚きはしない。昨日薬師神と一緒に歩いていた私が自分たちの想い人の彼女だと思った女子たちは、お前じゃ納得できない、自分の方が可愛い、お前は地味だ、などなど、自分の方が魅力があると盛大にアピールしながら甲高い声で罵声を浴びせてきた。偽の彼女にもなれなかった奴らが喚いていた。 私は真実を明かすことなく女子たちの罵声を黙って聞いていた。それが癪に触ったのか、女子の1人が私の頬を平手打ちし、それから胸倉を掴んできた。「私は絶対認めない」お前を許さない。殺意のこもった目を向けてくる女子は、私をもう一度殴ってから乱暴に手を離した。頬が痛む。だけど、ここで顔を歪ませるわけにはいかない。私は痛みを堪えながら女子を見た。そして今度は、隣にいた女子がずっと手に持っていたペットボトルの蓋を空けて。「痛い目見てもらうから」それを私の頭の上で躊躇なく逆さまにした。中に入っていた透明な水が、重力に従って私の顔や服を濡らしていく。動けずにいる私の口の中に、その水が自然と入ってきて。私はそれを飲んでしまった。 女子たちは意味ありげに口角を上げると、空になったペットポトルを私に投げつけて満足したように教室を去って行った。髪の毛から水が滴り落ちる。私はカバンから持参していたタオルを取り出し、濡れた髪を拭いた。それから床を拭くために雑巾を取りに行こうと歩みを進めた時、突然足に力が入らなくなり、私は崩れるようにして床に膝をついてしまった。なぜか息が切れ、体が熱くなる。心臓の鼓動も速くなった。一体何が起こっているのか。予想外のことに頭が追いつかず、私は自分の体の変化に酷く困惑してしまっていた。 そんな時、誰かが教室に入ってくる気配がした。助けを求めようと顔を上げた先には、校内でも不良だと有名な男2人がにやけた顔で私を見ていて。此奴らに助けを求めても無駄だと瞬時に悟った私は、力が入らない足に喝を入れて無理やり立ち上がろうとした。息切れが止まらない。体が熱い。それでも私はなんとか立ち上がり、カバンを持って男たちがいる方とは逆の扉を目指した。ふらふらする。足元がおぼつかない。 男たちは私に近づき、腕を掴んできた。その瞬間私の体は敏感に反応してしまい、無意識に出た抵抗の声と共に咄嗟に男の手を振り払っていた。その反動のせいか、また膝から崩れ落ちてしまった私は、自分の体を抱くようにして蹲った。おかしい。絶対おかしい。どうしてこんなに足に力が入らないんだ。この息切れは何だ。体が熱くなるのもどうしてなんだ。理由が分からなくて混乱する私を差し置いて、男たちは遠慮なく私に触れてきた。抵抗したくても体に力が入らない。男たちに触れられた体は私の意思に反してとても敏感で。自然と出てしまう声を抑えられなかった。 ここは教室だ。誰かが通ることもあれば、誰かが来ることもあった。それなのに、男たちは私を襲うのを止めてくれなくて。制服のボタンを乱暴に外された時、私は悲鳴に近い声を上げそうになった。だけどその口をすぐに手で塞がれ、声を上げることすらできなくなった。未だに呼吸が乱れていて、体も馬鹿みたいに熱くて。自分の意思とは裏腹に正直な体が心底憎かった。 嫌だ。助けて。薬師神。涙が溢れる中、自然と浮かんだ名前が彼のものだった。彼氏じゃないのに。本当に付き合っているわけじゃないのに。それでも、私は彼に助けを求めていた。他にも男子はいるのに、薬師神しか頭になかった。彼の名前と、彼の姿しか思い浮かばなかった。早く来て。お願い。私を助けて。薬師神。 叶うはずもない願いを込め続けていると、ここの教室の扉が開く音がした。男たちの手が止まり、全員が扉の方に視線を向ける。そこに立っていた人物の姿を見た瞬間、私は大粒の涙を流してしまった。こんな奇跡みたいなことが起きるなんて。まさか本当に来てくれるだなんて。私は扉の前にいる人物の名前を消え入りそうな声で口にした。「薬師神」 薬師神は私たちの元に歩み寄ると、男2人を冷めた眼差しで見下ろした。私に向けられているわけじゃないのに、思わず怯んでしまいそうな目だった。「その女、俺のだから」静かに落とされた薬師神の言葉に思わずドキッとしてしまう私よりも先に、男たちは慌てて私から離れて教室を飛び出していった。たった一言で私を助けてくれた薬師神は、今度は私に視線を向けてきた。先程とは少し違う瞳で。バチッと目が合うと、突如としてまた体が熱くなって息切れが酷くなった。心臓が爆発しそうな勢いで鳴っている。心なしか、さっきよりも症状が酷くなっているようで。 はだけた下着を隠すように蹲る私の肩に触れてきた薬師神。その彼の手にも体は敏感に反応してしまい、私は抵抗の声を上げていた。全然治まらないおかしな症状に恐怖さえ感じる私の前に、薬師神が膝をついたのが分かった。「お前、何飲まされたんだよ」聞かれた問いに答えられない私に、薬師神は溜息を吐き出した。呆れられてしまったのだろうか。馬鹿な女だと思われてしまったのだろうか。どうしてかそんな不安がよぎり、私はか細い声で謝罪の言葉を口にしてしまっていた。「ごめん、なさい」何に対して謝っているのかは、自分でもよく分からなかった。 辛い? 薬師神は珍しく優しい声色でそう尋ねてきた。その声に胸が跳ねるのと同時に、私は涙ながらにこくりと頷いていた。その簡単な動作ですら、今の私には重労働だった。辛いから、早く楽にしてほしい。その方法を薬師神が知っていることを、私は心の底から願っていた。頷いた私を優しく抱き締めてきた薬師神に、私の体は嫌になるほど反応してしまっていた。「や、やだ、やめて」薬師神を押しのけようとするけど、体に全く力が入らなくて。「悪いな、こんな方法で」耳元で囁かれるよう言われた瞬間、薬師神の指が私に触れてきた。頭がどうにかなってしまいそうになる中、私は咄嗟に薬師神の制服を掴み、その感覚に耐え忍んだのだった。 その日からというもの、私は薬師神のことが気になるようになっていた。興味関心なんてなかったはずの相手だったのに。薬師神の彼女役は一体いつまで続くのだろう。もうそろそろ契約が切られてしまう頃だろうか。できることなら、彼女役とかではなく、本当の彼女になりたい。私は薬師神の本物の彼女になりたい。そう強く思ってしまう私の、薬師神に対する気持ちは、気になってるというようなそんな類のものではないようだった。これは完全に恋だ。私は薬師神に恋をしてしまった。彼のことが好きなんだ。好きになってしまったんだ。こんなにも簡単に。あっさりと。 彼女のふりをすると提案した時、薬師神を好きになることはないと豪語していたのに結果はご覧の通り。彼のことが頭から離れない。気づけば彼のことばかり考えている。薬師神の声に反応してしまったり、薬師神の言動が気になってしまったりすることが多くなり、私の心臓は忙しなく動いていた。「瀬戸」私のたった2文字のありきたりな名字が、薬師神に呼ばれることで特別な2文字にすら成り果てるこの現状。胸がドキッと跳ねて、私を呼んでくれた薬師神を直視できなかった。 それでもなんとか顔を上げて薬師神と目を合わせると、私の気持ちを知らない彼が遂に恐れていたことを口にした。「彼女のふり、もうしなくても大丈夫だから」俺と一緒にいるようになってから、いろいろと災難な目に遭わせてる気がする。私のことを考えてくれているような薬師神のその言葉。でも今の私にとっては、その優しさが辛い。彼女のふり。彼女役。それだけが私と薬師神を繋ぐもので。それが途絶えてしまったら、私はもう薬師神の側にはいられない。その理由を失ってしまう。 「嫌」たったそれだけ。自然と出た私の本音は、薬師神を困らせてしまうもので。なんてわがままなのだろう。自分で提案したことが、自らの首を絞める行為と化するなんて。こんな簡単に好きになり、想いをぶつけてもきっと他の女子と同じように振られてしまうだけだろうと分かっていたなら、叶わない片想いに苦しんでしまうと分かっていたなら、彼女のふりをするなんて提案しなかった。普通のクラスメートでよかった。相変わらずモテるなって教室の隅の方で眺めているだけでよかった。こんな苦しい片想いをすると分かっていたなら。 「瀬戸」また薬師神が名前を呼んでくれた。私は思わず泣きそうになった。今すぐにでも、冗談だよ、なんて笑ってみせることができたらどんなによかっただろうか。薬師神って意外と優しいね。彼女役してみて分かったことだよ。自分の気持ちを隠すようにしてそう言える気持ちの強さがあったのなら、薬師神を困らせることなく、面倒だと思わせることなく、この偽装恋愛を終わらせられたのだろうか。 その答えが分からないまま、薬師神は遠回しに言ってきた。「俺はきっと、お前を好きにはならない」多くの女子に好意を持たれた彼だからこそ、私の気持ちに気づいてしまったのだろう。それでも、まだ何も言ってないのに、好きだと言ってないのに、俺を好きになるのはやめろ、みたいに牽制しないで。伝えることすら許されないなんて、そんなのあんまりじゃないか。 気まずい沈黙が漂う。私は涙目になっているであろう顔を隠すようにして俯いた。何か言って少しでも長く薬師神と一緒にいたいのに、私は何も言えずにただひたすら涙を呑むことしかできなかった。「また、明日」沈黙を破るようにしてそう言って、薬師神が動き出す。気配が離れていくのが分かった。嫌だ。行かないで。心の中で叫んでも、薬師神に届くはずもなくて。 男たちに襲われていた時とは逆だった。行かないでと願えば願うほど、薬師神の背中は遠のいていく。私が好きになればなるほど、薬師神は私から離れていってしまう。だったらどうしろっていうんだ。好きになってしまったこの気持ちを、私はどこに吐き出せばいいんだ。誰にも受け取ってもらえない感情が、涙となって溢れ出る。薬師神。薬師神。好きな人の名前を思うだけで苦しくなった。薬師神、好き。気持ちを心の中で呟くと、もっと苦しくなった。 叶わなかった恋がこんなにも辛いなんて、私は全然知らなかった。それでも私は薬師神のことが好きで、どう足掻いても彼のことを諦めきれなかった。ひたむきに頑張っていれば、いつか振り向いてくれるんじゃないか。私のことを見てくれるんじゃないか。そんな期待を抱かずにはいられず、気づけば私は薬師神を目で追うことが多くなってしまっていた。ダメだと分かっていても、自然と好きな人を目で追ってしまうのはどうにもならなくて。自分はどれだけ未練がましい奴なんだと溜息を吐きたくなった。こんなしつこい女を薬師神が見てくれるわけがない。 偽装恋愛が自然消滅してしばらく経った頃、薬師神が彼女と別れたんじゃないかと瞬く間に噂になった。それを知った女子が、また懲りずに彼に猛アタックすることが以前と比べて多くなったように感じ、薬師神のモテ度の高さは健在、いや上昇してしまった気がした。ますます手の届かない存在になってしまう。どんどん距離が遠くなり、私はそれを必死に追いかけている状態。薬師神の背中を、手が届く距離に達するまでひたすら追いかけているだけ。距離が縮まることはなかった。 薬師神が風邪で倒れ、保健室に運ばれた。どうやら無理をして学校に来ていたようだった。私は養護教諭がいないタイミングで保健室に入室し、忍び足で薬師神が寝ているであろうベッドに近寄った。彼を心配する女子はたくさんいたけど、今だけは私1人だった。保健室で男女2人きり。片方は風邪で寝込んでいる。小説や漫画ではありがちな場面だ。自ら好きな人と2人きりになり、自分の心臓を速くさせるような行動をとっているなんて、我ながら馬鹿なんじゃないかと思った。薬師神と対面する前から既に心臓がドキドキとうるさくて、彼の姿を見たらどうなってしまうのだろうと人知れず心配になってしまった。でもどうにかなるのが人間の体だ。 仕切りに手を伸ばす。寝ているかもしれないと思い、私は緩慢な動作でそれを横に動かした。すると。「誰?」中から薬師神の掠れたような声がした。その声にドキッと心臓が跳ね、一気に体が熱くなった。それでもなんとか平然を保ったまま私は仕切りを開け、自分の姿を晒した。「あぁ、瀬戸か」それはどういう意味なのだろう。私でよかったのか、それとも私じゃ不服だったのか。抑揚がなくて分からなかった。 薬師神は上体を起こしていて、手にはペットボトルの水を持っていた。寝苦しかったのか、制服のボタンはいくつか開けられていて、鎖骨が見え隠れしている。目も少しだけ潤んでいた。そんな、風邪で弱っている薬師神の姿からは、ありえないほどの色気を感じた。それと同時に、私の中で何かが蠢いた。風邪で体が弱っている薬師神を見て、私は一段と彼のことを好きになってしまっていたのだ。時々頭を抑えて頭痛に耐えるような仕草をしているのも、好感度を上げていた。もう少し弱った姿を見たい。もう少し苦しんだ姿を見たい。自分の中でサディズム的な部分が明確に出てき始めたのは、ちょうどその頃からだった。 薬師神が体育で長距離を走っている時や完走した後の呼吸の乱れ。怪我をした時などに痛みに顔を歪めている姿。最高に好きだった。私はそれをもっと乱してやりたくなるし、もっと苦しめてやりたくなるんだ。私だけにその表情を見せてほしいさえ思うようになっていた。快楽だった。薬師神の苦しむ姿を見ることは、私にとってとても嬉しいことだった。普段のクールな姿以上に好きだと思ってしまうほど。そこから徐々に、私は自分でも気づかないうちにおかしくなっていった。薬師神に対する純白な気持ちが、どんどん漆黒に染まっていく。サディズム的思考と醜い嫉妬心が、私を大きく塗り替えたのだった。
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