数字の美学

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数字の美学

 私は数学や算数が大嫌いだ。  大嫌い? いいや、そんなちんけな言葉でまとめられるような感情じゃない。  私たちは、分かり合い手を取り合って明るい未来を描いていたんだ。  私と算数の出会いは小学一年生。  算数は、算数セットと一緒に軽々しく「やぁ」って言いながらやってきた。  算数は知っていても、算数セットは初めて見る物だった。  蓋を開けると、中には時計やら書くブロックやらカードやら、魅惑的なものが沢山詰め込まれている。私はこの算数セットを使って算数の授業を受けなければならなかった。  この頃は良かった。算数セットは素晴らしいものだ。計算の面白さや答えを導く楽しさを教えてくれる。答えを出す面白さは、ボール遊びや人形遊び、ブランコには無い、胸がスーッと風が通っていく爽快感があった。思い返しても、あの時間は清々しい時間だった。小学校一年生の私は、算数の時間はずーっとこんな心地よい気持ちのまま過ぎていく。なんて思っていたんだ。  けれども、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。  小学二年生になると、算数セットを使って計算してはいけないルールになった。先生に何故? と聞いても納得の出来る答えは返ってこなかった。私は一人で計算しなければならない。これほど心細いことがあるだろうか。  今までの私は、算数セットがあったから計算が出来ていた。算数セットに依存していた私は当然計算が出来ない。  先生は、黒板に書いたかけ算を覚えれば良い。と言うけれど、私は算数セットが無いからわからなかった。  先生は、私にたくさんのプリントを渡して、わり算の練習をしなさい。と言うけれど、私は算数セットが無いから間違えてばかりだった。  解くことが出来ない計算に頭が真っ白になった。紙に書いている数字は「早く解け」と怒ったように脅してくる。数字の脅しが怖くなり、私の心はガタガタと震えてしまった。  あれだけ楽しかった算数が、算数セットが使えなくなって全く分からなくなり、つまらなくなっていく。計算すれば、大きなバツがついて返ってくる。間違った答えに数字が怒ってくる。私の中で算数は短気になってしまい何も言い返すことが出来なくなってきた。言い返せない感情はモヤモヤとして胸に溜まっていく。  私の胸に積もっていくモヤモヤは日にちが経つごとに重くなり、煩わしくなって、気づいたら算数の数字を見るだけでイライラするようになった。  私と算数はわかりあえていた。  でも、算数セットがあったからの関係だ。算数セットの無い算数は、何の魅力もない いじめっこ にしか見えなくなっていた。  中学生になっても私と算数、いや、数学の関係は変わらない。むしろ嫌い度はますます加速していった。  マイナスの計算。方程式。全然意味が分からない。  なぜそうなるのかが理解できない。  誰も、この方程式が認められた理由を説明してくれなくて、ただ「覚えろ」の一点張り。  先生に「覚えろ」と強要されれば去れるほど、私の心はどんどんとささくれ立っていく。意味がわからないもの、イメージできないものを何故覚えなければならないのか。  覚えろと言われて覚えるほど素直な心は私にはもう無い。  変な反骨精神が私を数学から遠ざけていき、私たちの関係性を表すように期末考査の点数と数学の通知表の評価が、どのような怪談話よりも恐ろしい結果を叩きつけるのであった。  きっと、私はこのまま数学と分かり合えないまま文系の人生を歩むのだろうなぁ。なんて思っている時だった。  中学二年の数学の先生は少し変わっている。 「今日から新しい単元になりますよー」  四人一組のグループを作らせて、グループごとに算数セットを置いていった。 「今日から勉強するのは証明の問題です。皆さん、算数セット懐かしくないですか?」  先生の言葉にみんな「懐かしい」と声を上げた。 「覚えていますかー? 算数セットの中には時計とかブロックとか色々あったと思いますが、今日使うのは、三角形の積み木と色板です。算数セットの中に入っている三角形の積み木と色板だけ出してくださいー」  みんなは、「懐かしいねぇ」と言いながら積み木と色板を算数セットから取り出した。グループのメンバーに「覚えてる?」と声をかけられて「もちろん」と答えたけれど、私は声が上ずらないようにするのが必死で算数セットに触る事すら出来なかった。 「みなさんに質問です。黄色の色板が二枚ありますよね? この黄色の色板、同じものって言えますか?」  みんなは、黄色の色板を重ねて「重なるから同じ」と答えた。 「じゃぁ、何故、重なってるって思ったんですか?」  先生の質問に、みんなは辺の長さが同じだから。角度が同じだからと口にする。  先生は、みんなの答えを聞いて、今度は色板を複数枚重ねて大きな三角形を作り、この三角形と三角形は? と尋ねだす。  先生の質問に、算数セットに触らないようにと諫めていた私は限界だった。色板を食い入るように見つめ、算数セットで作られた三角形をノートに書き写し出すと、先生は黒板にみんなが出した理由を一つの文章にした。 △AEDと△BCDにおいて AD=BD(仮定) ∠EAD=∠CBD(仮定) ∠ADE=∠BDC(BDは∠ADCの二等分線) よって1組の辺とその両端の角がそれぞれ等しいので △AED≡△BCD  先生の文章を見て、みんなは「おぉ」と口にする。みんなは、納得しての感想だ。私も「おぉ」って声が出た。  でも、私の声はみんなと違う。私はこの文章がとても美しいから驚いたのだ。どうしてこんなに美しいのだろう。一点の無駄もなく、スッとした佇まい。座り心地の良い結果。  それが「わかる」喜びなのだ。  それに気づいたとき、自分の心に風が吹き込んだ。  その授業以降、数学の問題を見ても全くモヤモヤしなくなった。数字が怒りだすこともない。時折、問題が算数セットと一緒に「どうだい?」と声をかけてくる。  私は「大丈夫だよ」と心の中で答えて、必死に美しく座り心地の良い答えを書いていく。  答えが美しいな、と思った時は決まって、問題は解けている。  そんな日が数日続き、数学への感情も落ち着いてきた。 「もう大丈夫だよ」「君一人でもやっていける」算数セットは私にこんな言葉を投げかけてきた。  そうかもしれない。授業が終わる度、数学に対する刺々しい思いが柔らかくなっていく。刺々しいどころかもっと数学の事を知りたくなった。それはケンカしていた相手と仲直りが出来た証拠。  けれども、算数セットの声が聞こえなくなっていた。  この学期の期末試験。  数学の試験範囲に証明問題が入っていた。  普段は、憂鬱な時間だけれども、この時はドキドキが止まらない。この場に算数セットは無くても、私の頭にはある。  算数セットのいる私は無敵だから、どんな問題でも解ける自信があった。  いや、試験が終わっても数学に対しての自信はずーっと続いていた。  返っていた点数は六十五点。自信のワリにはぱっとしない結果だと思う。  おまけに証明問題以外はほとんどバツばっかり。けれども、証明の問題に大きくつけられた花丸は六十五点以上の価値があった。  ほかの人が見たらおかしな人に見えたかもしれない。六十五点なんて平均点をやっと越えた点数なのに、なんで私は気持ち悪いぐらいに笑っているんだろう。って思うかもしれない。  だけど、嬉しかった。  分かる事の喜び。認められた事の嬉しさをまた味わうことが出来たのだ。算数セットのおかげで。  もう、算数セットを使って勉強することはないだろう。けれども、私の頭の中には優しい算数セットが存在している。算数セットはこれからも数学の問題で美しい答えを一緒に導いてくれるだろう。  数学のテスト用紙がクシャっと音を立てる。 「ありがとう」  六十五点と書かれた文字が水墨画の絵のようにぼやけて滲んでいた。
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