鶯の囀り

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鶯の囀り

「宮様、ここでお待ちください。持ってきた物を売り払って金にして参ります」  (しきみ)はそう言うと、早速質屋へ売り払いに行った。少しすると、持ってきた巾着いっぱいに金子を手に入れた樒が上機嫌で戻ってくる。 「あの質屋の旦那は気前がいいですね」  巾着を赤子を抱くように抱えている樒は、多聞(たもん)の頭からつま先までじっと見た。 「宮様、そのご格好は目立ちます。どこかで服を手に入れましょう。あと…」  樒は多聞の髪型を見て少し考える。  多聞は樒の視線の先、自身の前方の髪束の先端を縛っているところに目を落とす。髪束がぶらぶらと揺れるこの独特の結い方は、(しん)の皇族男子の規則で決められている髪型だ。 「(われ)のこの結髪は伴侶以外の前で解くことが許されていないゆえ、どうしようもないぞ。確かにこれが一番目立つだろうが」 「…宮様、恐れながら私にひとつだけ案があります」  樒は少し険しい顔をしながら、そう放った。 ◆ 「…本当に、この格好で出歩かせるつもりか」  木の裏から、自信のなさそうな弱々しい多聞の声がする。 「宮様、非常にお似合いです。これでは永安のどの美女も宮様の美貌に勝らないでしょう」  多聞は樒が買ってきた女物の服に着替え、髪束は解かずに(きょう)の女性風に結わえていた。後ろ髪は下ろし、その風貌は誰が見ても傾国の美女そのものである。  木の裏から出てきた多聞は、自身の着ている服を珍しそうに眺めた。 「晋の女人が着ているものとは少し違うな」  晋の女性は厚い絹布でできたものを何着も上に重ねて着るため、見た目も実際も重いと言う。しかし、今多聞が着ているものは非常に薄いため軽く、身動きがしやすい。何より、動かした際にゆらゆらと揺らめく様子が可憐で美しい。 「梗はとても素晴らしい国だ。色々学んで晋へ持ち帰らねば」 「そうだ、お腹はすいていませんか?長い船旅と馬車での旅でしたし、何か食べましょう。私が適当に見て回って参りますので、ここでお待ちください。…絶対ここから動かないでください。絶対に!」  樒はささっと人混みの中に消え、多聞は一人取り残された。 「…少しばかり歩くだけだ」  多聞は人混みとは反対の方向へ歩み出す。建物と建物の間の細々とした道を通り、人気のない場所まで来ると、まだ昼だというのに辺りは薄暗く、どこか湿った雰囲気がして匂いも澱んでいる。 「…ここは如何様(どのよう)な所であろうな」  多聞の足は止まることを知らず、ただ好奇心あるのみで前に進む。半分朽ちたような家の柱に寄りかかる老人は異常なまでに痩せこけ、周囲は同じような人間が集まっていた。誰も彼もが下を向き、その目には光が届いていない。 「ーーー!」  いきなり多聞の前に少年が立ち塞がるようにして現れる。しかし、多聞には彼が放った梗の言葉は分からない。 「すまぬが予は梗の言葉は話せぬ」  多聞は困ったように答え、小年に目を合わせるようにしゃがむ。少年の体は骨と皮だけでできているようで、枝のように細い腕は微かに震えている。 「…満足に食べていないのだな、可哀想に。予が何か買ってきてやろう」  少年もまた、多聞の話す晋の言葉が分からないのだろう。顔は険しさを増し、脅すことを諦め別の方法を探しているようだった。 「ここで待っておれ。近くの店で美味そうな肉串が売られていた」  そう言って多聞が踵を返そうとした途端、少年は多聞に向かって飛びかかる。無理矢理多聞の懐から何か金目のものを奪おうとしたのだろう。しかし、少年が多聞に触れる寸前で、何者かが少年の腕を掴み捻りあげた。  多聞は衝撃で尻餅をつき、その痛みに顔をしかめる。  手をついて立ち上がろうとしたその時、ふと、手が差し伸べられた。  多聞が顔をあげると、美丈夫がこちらに手を差し出している。日光を介して茶色かかる黒髪に、知的さを感じさせる焦茶色の瞳。すらっと通った鼻筋に、淡い薄紅の整った唇。  その美貌に、多聞は思わず見入ってしまう。 「…お嬢さん、お怪我はありませんか?」 「え、ええ。ありがとうございます」  美丈夫の手を借りて多聞は立ち上がるも、しばらくぽーっとのぼせあがってしまった。  美丈夫の背丈は多聞よりも八寸ほどは高く、その錦の衣からは優しく落ち着いた香りがする。多聞はなぜか懐かしい心地がした。 「ーーーーーーーー」  美丈夫がなにか声をかけると、遠志と呼ばれた少年を捻り上げた男は手を緩める。少年は美丈夫や遠志を睨みつけるように見やった。 「その者は悪くありません。お腹が空いているようですし、何か買ってきます」  多聞はそう言い終わるや否や小走りで道を抜け、先ほどまでいた通りへ戻る。 「思わず見惚れてしまうほど美しい方だ。梗は文化や技術だけでなく民も素晴らしいのだな」  多聞は先程樒の巾着からこっそり持ち出した銀子を懐から取り出し、肉串を買った。香ばしい匂いを漂わせる肉串を手に再び戻ると、少年はすっかり解放され地面に座り込んでいるところだった。 「お食べ」  多聞が肉串を差し出すと、少年は何も言うことなく食いつく。よほど空腹だったのだろうと思うと、多聞は少し悲しく思った。 「襲われかけたというのに食事をやるとは、お嬢さんはお優しいですね」  美丈夫は多聞に微笑みかける。その瞬間多聞は自身の心が一瞬止まったように感じ、美丈夫と目を合わせることができなかった。 「助けて頂いて、ありがとうございます」 「いえ、たまたま歩いていたらお嬢さんが一人で貧民街へ向かうところを見かけたので、気になって後を追ってみただけです。ですが、お嬢さん一人であまり出歩くのはお勧めできません」 「そうだ、お礼をさせてください」 「そんな、礼には及びません。きっと従者の方もお探しでしょうから、私どもはこれで失礼します」 「あ、あの!」  多聞は立ち去ろうとする美丈夫の腕を、思わず掴んでしまう。美丈夫は一瞬驚いたような顔をした。 「お名前だけでも、お教え頂けませんか?」  言った直後に流石に名前を訊くのは急だっただろうか、と不安に思った多聞だが、案外すぐに美丈夫は微笑んで答えた。 「私は(さい)、と申します。…では、お嬢さんのお名前をお伺いしても?」  多聞は予想外の問いに言葉を詰まらせる。梗の女性の名を、多聞は知らない。 「…紅玉(こうぎょく)、紅玉です」 「美しいお名前だ。お伺いできて光栄です。では、またご縁があったら」  崔と名乗った美丈夫は去り、いつのまにか少年もいなくなっていた。  ぽつんと残された多聞は、美丈夫が見えなくなった後もぼーっと残像を追うように動かなかった。 ◆  庚宮(かのえのみや)は、紅色の装束を正装として身に纏うことから、紅衣(こうい)の君、もしくは(もみじ)の君と呼ばれる。 「紅玉、か」  美丈夫___崔秋旻(しゅうびん)は、先程自身が助けた女人の名をこぼす。 「殿下、先程殿下があの女人とお話しになっていたのは、晋の言葉ですか?」 「そうだ。実際に使う機会はないと思っていたが、役に立つ日がくるとは」  崔秋旻__先帝の第三皇子であり、現皇帝の弟である彼は、道沿いに花咲かす一本の桃の木に目を止めた。 「遠志、彼女について調べてくれ」  梗国に、春が訪れようとしていた。
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