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■相原編4:過去と現在
「……だったら、なんで……」
相原の今更の告白に、沙和は声を震わせた。相原の表情は淡々としたままで、沙和をじっと見つめている。
高三の夏の予選が終わった後、相原には彼女ができた。沙和を好きだと言うならば、一体その子とはどうして付き合ったのだろう。
沙和の沈黙を受けて、相原は「そうだな……一言であらわすなら、俺が臆病風に吹かれたんだ」と、ここで一瞬だけ自虐的な笑みを浮かべた。
「相原が、臆病?」
全くそんな印象がないだけに、相原が発した言葉に違和感がある。
「そう。今思うと俺も自分に呆れるが……」
相原はここで言葉を切ると「……望月も、俺のことを好きだっただろう?」と矛先を沙和に向けてきた。
その問いをされるのは、二回目だ。
一回目は数年前の同窓会の帰り道。結構酔っ払っていたから、なんの脈絡もなく聞かれても違和感を抱かず「あー、うんうん。そうだったよー」と沙和は軽く答えた。沙和にとっては相原への恋心は過去のものとして処理されていたから、するりと言葉は出てきた。それに対する相原の反応は……。
(覚えてない……。でも確かふーんとかへーとかそういう軽い感じだった気がする)
あれは冗談の延長のような感じだった。
けれど、今は違う。
お互い真剣な表情で向き合っている中での答えは、重みがまるで違うだろう。どこか厳かな気持ちになりながら、沙和はうなずいた。
「好きだったよ、相原のこと。だから彼女ができた時はショックだった」
相原は沙和の言葉にうなずきを返すと「俺も望月の気持ちには気づいてた。……なのに、最後の最後で詰めを誤ったんだ」とうつむいた。
そうして次に相原が話したのは、別のある日のこと。
高三の七月。夏の予選が佳境に入った時期のふとした瞬間の話だった。
◆
それは放課後、部活動が始まる前のわずかな時間。相原は、外の水飲み場で沙和とクラスメイトが話しているところに通りがかった。相手は同級生で、相原も顔は知っている。沙和と結構仲が良いという認識を持っていた女子だった。
「いよいよ予選じゃん。沙和の恋愛解禁までのカウントダウンも始まったねー!」
「いや、別にもともと恋愛禁止じゃないし」
「えー? でも自制してるって言ってたじゃん。好きな人いるんでしょ? 誰よー」
「まあ……いるけど、そこはちょっと……」
たわいもない内容だと通り過ぎるには気になりすぎる。相原はそっと水飲み場からの死角にとどまり、耳をそばだてた。御誂え向きなことに、水飲み場のそばには自動販売機のコーナーがあり、飲み物を買うそぶりを見せれば違和感はなかった。
「相原君とか? キャプテンだし、マネージャーみんな好きなんじゃないの?」
沙和の友人の地声は大きい。突然名指しされ、相原はより一層耳の感覚を研ぎ澄ませる。沙和は「ええっ」と驚いた声をあげてしばらく沈黙していたが、友人よりも何トーンも奥ゆかしい声で「相原は……ないかな。うん、相原はない」とはっきり言った。
「え、なんで? ていうか二回言う必要ある?」
相原も同じ気持ちだった。
(俺が……ない? なぜだ……?)
「だって相原なんて完璧すぎて、気後れしちゃう。好きとか以前の問題だね」
ふらりと足元がぐらつき、相原はそのまま水飲み場とは反対の方向からグラウンドへと戻った。心ここにあらずの表情で足元も少々ふらついたが、まわりの部員の誰にもそれは気づかれずに済んだようだ。
とりあえず部室に戻り、ロッカーに手をかけて体重を預ける。他の部員たちの声が飛び交っていたが、それは全て耳に入らずに、ひたすら沙和の放った言葉が頭をまわっていた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。嘘だと思いたかったけれど、それにしては明瞭に聞こえすぎていた。
相原は沙和の言葉を聞くまでは、彼女も自分を好きだと信じて疑っていなかった。
彼女が自分に向ける眼差しはいつだって色づいていたし、一緒にいる時間をお互い楽しんでいると確信があった。
(それに……あの言葉……。望月は俺を特別に想っているから、ああ言ってくれたんじゃないのか……?)
相原には、沙和の気持ちの拠り所にしている言葉があった。
それは彼女が相原に放った、何気無いけれど大事な一言。
あれを聞いて、相原は沙和の自分へ向ける想いに気づいたつもりだった。
けれど……。
(……全部、俺の勘違いだったということか)
彼にしては珍しく、顔に血がのぼり、頬から耳まで真っ赤になった。
おい、どうした? とそろそろ相原の微動だにしない様子を気にした部員たちが視線を向けてくる。
「……いや、なんでもない」
相原はようやく外界へ意識を向けて、野球部キャプテンとしての顔を貼り付けた。
いつものように平静な表情を作ったその時、相原は沙和への想いを封印することにしたのだった。
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