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■相原編5:転機
椎名の言っていたことは、全容を伝えていない割には核心をついていた。
相原に絆されかけている一方で、決定的な溝がある。
だから椎名のアドバイスは、どちらもとても心に刺さった。
(もしもあの画像がなければ……あの夜がなければ……)
相原の表の面だけを見ていれば、こんなふうに息がつまるように愛を注がれることはなかったのだろうか。
自分を見つめ直すと、つい未知の未来について思いを馳せてしまう。
(こんなことしても何の意味もないのに……)
考えすぎると、糸はこんがらがる。
沙和はその夜は早めに眠ることにした。とりあえず思考を中断させたかった。
そして深夜、玄関のドアが開く音で沙和の意識はぼんやりと浮上した。相原の帰宅だ。習慣で時計を確認し、日付が変わっているのを見て、沙和は重いまぶたを再び下ろす。
(毎日大変だな、ほんと……)
お疲れ様と思いながら、再びの眠りに引き込まれかけたとき「……くそっ」という声が耳に届いた。穏やかじゃない声音と、次いでどかっと何か硬いものを殴る音。おそらく壁だろう。相原が荒れているのがわかって、沙和は目を開いた。
(な、何事……!?)
まさか昼間のランチがばれたのだろうか。いやまさか。あり得ない。
ドキドキしながら、リビングに背を向けるようにして丸くなる。けれどその後何も音が聞こえないのが不気味で、そっと沙和はベッドから起きて様子を見てみることにした。
リビングのドアをそっと開けると、相原はスーツ姿のまま壁にもたれかかって天を仰いでいたが、沙和に気づくと姿勢を少しだけ正した。
「ああ……うるさかったか。すまない」
自分への穏やかな調子に、さきほどの怒りは別のことに対してだとわかる。心底ほっとした。
「……何かあった?」
そっと尋ねると、相原は疲れた表情のまま口角を上げる。
「……八割方決まっていたプロジェクトが急な方針転換にあってね……これまで準備してきたことがほぼ無駄になる上に、スケジュール的にもかなり厳しい」
大きくため息をついて、相原は苦々しい顔つきになった。
原因が自分ではなく仕事でのトラブルであったことは安堵しかない。けれど、相原の憔悴した様子は、初めて見るものだった。
「俺は何度も上司に言ったんだ。トップに確認をとってくれと。それをのらりくらりと後回しにして、進めるだけ進めた状態でトップに確認をとったら、こき下ろされて方針転換……」
相原は脱力した様子でソファに腰を沈めると、両手で顔を覆った。なんとなく相原を見下ろすのが気まずくて、すっかり目が覚めた沙和も隣に座る。そばによると、相原の荒っぽい息遣いまでが耳に入った。
「しかも……企画発案は俺の責任だと言いがかりまでつけてきて……笑えるだろ」
「さ、最悪じゃん……」
「そう……最悪だ……」
相原のまわりにどす黒いオーラが渦巻いている。怒りや悔しさ、そして悲しさ……沙和にも何度も経験がある。
リーダーや担当者の鶴の一声でデザインの方向性が変わるというのはよくある話だった。机上でイメージをしていたものが、実際のポスターなどのデザインになって上がってきた時に「なんかイメージ違う」といわれ「やっぱりこうした方がいいんじゃない?」とつるつる方向がすべっていく。
納期に間に合わないと言っても、ゴリ押しで何とかなると思っている担当の場合は、沙和たち制作陣に全てのしわ寄せがくる。
(あれはきついんだよなぁ……モチベーションが極限まで下がっちゃうし)
相原の気持ちは、察して余りあるくらいだ。
毎日あれだけ頑張っていてそれが白紙になってしまったら、それこそ絶望するくらいにショックだろう。
(しかも相原のせいにするって……その上司、最低すぎない!?)
上にたつ者としてどうなんだ。見たこともない上司に沙和まで腹が立ってきた。
「その上司……痛い目にあえばいいのに」
怒りをにじませた沙和の声に驚いたのか、相原は顔をあげた。望月でもそんなこと言うんだなと呟くから「当たり前じゃん」と胸を張ってみせる。
「確かに働いてるとそういうことってたくさんあるけどさ。慣れたからって傷つかないわけじゃないし、怒りが小さく済むわけでもないでしょ。しかも自分がほうれんそうを怠ったくせに部下のせいにするとか、ありえないっ」
話してるうちに沙和自身もヒートアップしてしまい、言い切った時には息が荒かった。ふーふーと深呼吸して気を落ち着かせていると、となりで吹き出す音がする。
「え、笑うとこあった?」と沙和が驚くと、相原は苦笑いしながら「いや違う。あんまりにも望月が俺の言いたいことを代弁してくれたから、びっくりして」と教えてくれた。
「ありがとう、望月」
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