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柔らかい微笑みとともに、相原の手がそっと沙和の頬を包む。慈しむような手つきに安らぎを感じてしまい、沙和は落ち着かない気持ちで「……別に……だって本当に理不尽だし……」と声をしぼませた。
相原はそっと沙和の唇にキスを落としてから、立ち上がりバスルームへと向かっていった。
その背中に思わず追い縋りそうになって、沙和は拳を握りしめる。それでも目だけはずっと相原を追いかけていた。
◆
次の日、沙和が起きたら相原は既に家を出ていた。
『多分終電には間に合わない』
スマホにはそんなメッセージが入っている。
それを起き抜けに読んで、沙和はしばらくじっとそれを見つめたまま、相原のことを考えた。
(終電を逃したらどうするんだろう。タクシー? それとも会社に泊まるとか?)
今ですらハードな働き方をしているのに、これ以上となると体調を崩してしまうんじゃないだろうか。
妙に心配になってしまう。
そのそわそわした気持ちは日中も消えず、夜になっても変わらなかった。
何かしてあげられることはあるだろうかと考えたりして、気づくと栄養ドリンクの効果一覧みたいなサイトを吟味していたりして。
なんだか自分の調子が変だった。
何となく身が入らないままその日の作業を終わらせて会社を出る。普段よりも少しゆるいスピードで歩いていると「沙和!!」と背後から聞き慣れた声がかかった。
間違いようのない声だけれど、ここにいるはずのない……壮太の声。
沙和が驚いて振り向くより先に腕を掴まれて、壮太が前にまわりこんでいた。スーツにビジネスバッグを持った姿だから、会社帰りなのは明白。ただ、彼にしては時間が早かった。普段の彼ならばこんな時間にあがれているはずはない。
「やっと会えた」
少しだけ息を切らせて、壮太が低く呟く。
「な、なんでここに?」
「待ってたんだ。ようやく仕事早くあがれたから」
そこのコーヒーショップで沙和が通るのを待ってた、と壮太は会社から数軒隣にある店を指差した。そこは沙和もよく利用する店で、カウンター席から外を見られるから、壮太の目的のためには御誂え向きだ。
「このところずっと既読スルーばっかりだし、ようやく返事来たと思ったらあんなんだし。……あれって本当?」
ずずいと顔を寄せられて、沙和は「ちょっと、とりあえず落ち着いて!」と壮太に掴まれたままの腕を振った。こんな道の往来で立ち止まっていたらはた迷惑だし、会社の人間に見られてしまう。
とにかく人目のつかないところに移動しなければと、沙和は壮太を誘導して脇道に入った。駅までの道からは外れるので一気に人通りがなくなり、ここならば少し立ち話ができる。雑居ビルの入り口歩道の端に寄ってから、沙和は壮太が口を開くよりも先に勢いよく頭を下げた。
「ずっと連絡しなくてごめん」
壮太が心配していることは知っていた。
そんな彼を安心させたいと思ってもいた。
けれど何もできなかったのは、ひとえに自分の保身のためだ。壮太が心配していることは、わかっていたのに。
(私、普通に最低だ……)
いたたまれなさと申し訳なさを隠すことなく顔をあげると、壮太は眉根を寄せて沙和を見つめていた。
「……本気で相原と付き合ってるの? 部屋に行ってもいつもいないし……まさか相原の部屋にでも住んでるわけ?」
「さすが、鋭いね……」
「……まじかよ」
壮太は頭を抱えた。ブツブツと何事かつぶやいているが、くぐもっていて沙和までは聞こえてこない。
「壮太……」
そっと肩に手を添えようとしたところで、逆に手首を掴まれる。待ち構えていたかのような周到な動きに沙和は身じろぎしたが、壮太は手を離すどころか力をこめてきた。
「なんでずっと返事しなかったの」
本気で心配したと壮太は悲痛な面持ちで呟く。沙和が想像していたよりもずっと強く、壮太が沙和のことを案じていたことが伝わってくる。沙和は情けないくらいに眉を下げて「本当にごめん」と再び謝った。
「相原がずっと壮太とのやりとりチェックしてて……返事するなって言われてた……」
「は? 何それ」
言葉にすると相原の横暴さが表出する。思った通り、壮太は怒りをあらわに「ありえないでしょ」と聞いたこともない低い声で吐き捨てた。
「なんで相原にそんな権限あるの。束縛するにもやりすぎでしょ」
正論である。
壮太からこういうもっともなことを言われるのは妙な気分だった。
(普段はそっちの方がモラルに反することばっかしてるくせに)
沙和が何も言い返さないのを見て、壮太はもともと細い目をさらに糸のように張り詰めさせた。
「……沙和はそれでいいの?」
「よくはないけど……」
「なんで相原といるの」
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