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■相原編6:揺れる
その夜、相原は事前に予告していた通り、終電には間に合わなかった。というよりも、そもそも家に帰ってこなかった。
一時頃までは沙和も起きていたのだが睡魔に負けて眠ってしまい、朝起きたら『会社近くのビジネスホテルに泊まる』という旨のメッセージが届いていた。深夜二時頃のものだった。
(過酷だ……)
着替えも必要だし、家に戻るかもしれない。
そう思って、沙和はローテーブルに栄養ドリンクを一本置いた。少し割高だが、疲れがとれると口コミサイトで言われていたものだ。『お疲れ様』とメモを添えてから、家を出る。
そして帰ってきた時には栄養ドリンクはなくなっていて、代わりに『ありがとう』というメモが置いてあった。
「相原……」
そっとメモを拾い上げ、文字をなぞる。
こんな時でも相原の字は整っていた。
それから週末にかけては同じサイクルで日々が進んだ。
毎朝栄養ドリンクを置いて、帰宅後にそれがないのを確かめる。
やりとりはメッセージと簡易的な置き手紙のみで、顔をあわせることなく土曜日がやってきた。
「……うーん……」
土曜日の朝、沙和が目をうっすらと開けると、久しぶりに相原の顔が目の前にあった。明るい光の中で、真っ白い顔をして眠っている。寝ている時も仕事の夢を見ているのか、眉間にシワが寄っていた。
そっと指で眉間にふれてみると、相原はそれを嫌がるように顔をむずがった。あわてて指を離すと、安心したように再び眠りに入っていく。その寝顔を見つめていると、自分の中であたたかな気持ちが色づいていく。これを『愛しい』という気持ちだと認めれば、楽になれるのだろうか。
しばらく相原の寝顔を堪能した後で、沙和はそっとベッドから抜け出して朝食を作った。
相原の部屋のキッチンをしっかり使うのは初めてだ。
基本的な道具や調味料のありかは聞いてあるので、いろいろと使わせてもらって、ホットケーキを焼いた。相原自身も料理はほとんどしないと言っていたから、フライパンは焦げなど何もない綺麗な状態だし、調味料もほぼ満タン状態で残っている。
(この一週間、何食べてたんだろ……)
しっかり栄養あるもの食べてたんだろうか。
そんなことを考えつつホットケーキを焼いて、ローテーブルに並べる。その作業中に寝室のドアが開いて、ぼんやりとした表情の相原が顔を出した。
思ったよりも早い起床だ。
「おはよう」
「……おはよう」
言いながら相原は大きなあくびをしている。明らかに寝足りない様子に「まだ寝てたらいいんじゃない? 起きた時にまたホットケーキ焼くよ」と沙和は声をかけた。
「……いや、起きるよ。顔だけ洗ってくる」
どこかのんびりした調子でいうと、相原は洗面所へとのっそり向かった。普段のきびきびした所作からは考えられないスローモーションな動きからも、相当疲れていることが伺える。
(ホットケーキの他にウインナーもつけよう)
疲れには肉だ。
昨日スーパーで食材も買い物してあり、夜は焼肉をするつもりだった。けれど朝も何かしらタンパク質をとってもらった方がいいかもしれない。
相原の分のホットケーキも焼いて、ウインナーも何本か添えて運ぶと、相原はソファに座ってテレビをつけていた。昼前のニュースを眺める横顔がとても白くて、その血の気のなさに胸騒ぎにも似たものが駆け巡る。
「毎日お疲れ様」
「ああ……望月も。朝食作ってくれたんだな。ありがとう」
「簡単なものだけどね」
「いや、嬉しいよ」
相原は穏やかに微笑みを浮かべて沙和にうなずき、はちみつを手にとってかけ始めた。たっぷりとかけられたそれを器用にナイフで切り分けて口に運ぶ。そこまでの流れるような所作をついじっくりと見つめていた沙和は、相原に視線を向けられ「あ、ごめんごめん」と慌てて自分の皿に目を落とした。
「どうかなと思って……いや、ホットケーキミックス使ってるから、味にどうもこうもないんだけどさ……」
あわてて言いつくろいながら、自分もホットケーキを口に運ぶ。
いつもの安定した味だ。当たり前の話だ。
「美味しいよ」
すごく美味しいとまで付け加えて、相原は嬉しそうに微笑んだ。その顔にまた沙和は胸をはねさせ「あ、うん、よかった」とうつむく。
なんだかとても恥ずかしい。
朝食を作ったのが初めてだからって、こんなに一人でドギマギするとは思わなかった。
(相原の反応が、こんなに気になるなんて……)
そして喜んでもらって、こんなにも満たされた気持ちになるなんて。
これ以上その気持ちに浸るのは恥ずかしかったから「それにしても仕事本当に大変そうだね。今日明日はゆっくり休んだらいいよ」と話題を転換した。
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