■相原編6:揺れる

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「……まじで?」  壮太が信じられない気持ちなのは、よくわかる。  沙和だって言いながら疑心暗鬼だ。 「私、絆されてるのかもしれない」  自虐的に微笑むと、壮太は無言で沙和を見つめ返した。真偽を問うような視線を受けて「ほんとバカだよね」と苦笑する。 「……本当にね」  沙和、と壮太は低い声で名前を呼んだ。 「それは絆されてるって言うんじゃなくて、毒されてるって言うんだよ」  言い得て妙だ、と沙和も思った。  その後ぽつぽつと会話をしてから、コーヒーショップを出た。  壮太は最後まで納得がいかないようだったけれど、前回のように感情的になることもなく、ひたすら冷静に沙和の話を聞いてくれた。   「あのね、これだけは言っとくけど」  駅の改札を抜けた後、壮太は沙和の手首をつかんでそう言った。  その目には確かに怒りが宿っていて、それでもそれを逃がそうとするように壮太は唇を震わせている。 「今の沙和は、相原を好きなわけじゃないよ。ただの錯覚。早く目を覚まして」 「……壮太」 「……また会いに来るから。こういうのならいいんでしょ?」  沙和が咄嗟に否定しようとするのはお見通しだったのか、壮太は沙和の唇を指でつまんだ。あひるみたいに唇を突き出す格好になってしまい、沙和が真っ赤になって反抗すると、壮太は「アホ面」と笑みをこぼす。 「いいよ。俺が勝手に行くから」  合鍵は返さないからね、と最後に一度だけ微笑むと、壮太は沙和に背を向けた。  ◆  壮太の言葉は、一振りの刀となって沙和の心に突き刺さった。  錯覚と言われて揺らぐようならば、確かに本物ではないのかもしれない。  今まで誰かを好きだと思うことに、迷うことなんてなかった。  好きだなという直感を信じられたし、後悔したこともない。  こんなに後ろめたい思いと隣り合わせの気持ちは初めてで、沙和は揺れてばかりいる。相原の不在もそれに拍車をかけて、沙和は自分でもびっくりするほどため息ばかりついていた。  相原に会いたかった。  顔を見れば全てが明らかになるような気がしていて、事実、沙和はその時の自分の反応で見極めようと考えていた。  そして次に相原と顔を合わせたのは、土曜日になってからだった。金曜の夜に会社に泊まりこみ、土曜の昼過ぎに戻ってきた相原の顔に普段見ない無精髭を発見し、なんとも言えない気持ちになる。 「……終わったよ」  ぐたりとソファに体を預けそう言う相原の表情は疲労と開放感に満ち溢れていて、沙和は心の底から「お疲れ様」と彼をねぎらった。 「ああ……いくつか修羅場はあったが、無事に全てが決まった。あとは……実働隊にまかせるだけだ……」  天を仰いで、相原が目を閉じる。  彼にようやく久方ぶりの安息が訪れるのがわかり、沙和は安心した。これでもう余計な心配をしないで済む。  相原の顔を見られて、沙和は自分の心がゆったりとさざなみのように落ち着いていくのを感じた。不在の間の嵐のような激しいものは、今は凪いでいる。 「本当によく頑張ってたね。今日こそゆっくり眠れるね」  沙和は相原の隣に座り、その肩にそっと触れた。相原は薄く目を開けると「望月のくれた栄養ドリンクとレモン、ありがたかった」と微笑みながら体を起こした。 「懐かしい味だったよ、あのレモン」 「あれくらいしかレパートリーなくてさ」 「十分だ。……望月が、俺だけのために作ってくれたものだと思ったら……」  ゆったりと相原が沙和を抱きしめた。普段よりも相原の香りが強くして、沙和の体の芯を疼かせる。それをごまかすように沙和も相原の背に手をまわした。 「俺は毎日遅かったのに……自分の家に帰らなかったんだな」 「……ああ。そういえば、そうだったね……忘れてたよ」 「そうか……忘れてたのか……」  低く相原は笑みをこぼしてから、沙和の唇を欲しがった。薄く開いて相原の唇を受け入れると、また体が反応を示す。そういえばキスをするのも久しぶりな気がした。  相原の舌が当たり前のように沙和の口内に入ってきて、かきまわす。  ミントの香りがして、相変わらず相原はこういう時も爽やかだった。  舌をからめあって夢中になっているうちに、沙和はだんだんと体温が上がってくるのがわかった。   (私……興奮してる……)  というよりも、欲情している。  相原にもっと触れたい。  そして、触れて欲しい。  それは本能に近い感覚で、沙和がいくら理性で止めようとしても失われることはなかった。  きつく抱きしめて積極的にキスに応える沙和に、きっと相原も気づいたのだろう。途中からキスが明らかな意図をもって変わり始めた。同時に沙和の背中にあった手もするりとうごめき始める。 「……疲れて……ない?」  キスの合間にかすれる声で聞いたのは、沙和に残る最後の理性のともしびだった。相原はその沙和の必死の意図を蹴散らすように、普段通りの表情で微笑むと沙和の首筋に吸い付く。  それが相原の答えであり、沙和の理性をかき消す一手であった。  心と体が歓喜に震える。  ずっと求めていたのだと叫んでいるのは体なのか心なのか、わからないままに沙和は相原に溺れた。
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