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■相原編8:涙 ※相原視点
手に入れたと思ったのに、手のひらから滑り落ちて行く。
思えば相原にとって、沙和はいつもそういう存在だった。
◆
相原が沙和を特別に想うようになるきっかけになった、高校時代の沙和からの言葉。
それは、相原が曹操に似ているという話から始まった。曹操は魏を大国へとおしあげて、『覇王』と呼ばれる。そのことになぞらえて「相原が覇王になるなら、優秀な幹部が必要だよね」と沙和は微笑んだ。
折しもテレビ画面では、曹操のグラフィックが大きく映し出され、片手を高く掲げて部下たちを鼓舞している場面だった。ゲーム内では軍議の真っ最中で、曹操が鶴の一声で隣国に攻め込むことを決めたところだ。
「だから私、相原の軍師になるよ」
軍師とは知略で王を支える存在のこと。その言葉自体は知っていたが沙和の言葉の意味が飲み込めず、相原は「どういうことだ?」と聞き返した。
「えー? わかんない? 困ったときはなんでも相談してねってこと。知恵を出し合えばきっと色々うまくいくからさ。私、相原の力になりたい」
「望月……」
はにかむ沙和の笑顔を見ながら、彼女がもしも自分を支えてくれるのならば、どこまででもいけそうだと思った。
彼女がそばにいてくれるなら。
相原は自然と微笑んで「ありがとう。じゃあお願いするよ」とうなずいた。
すごく嬉しかった。
聡明な彼女とならば、困難があっても知恵を振り絞っていけると思った。その頃、相原は親からのプレッシャーに悩まされている時期でもあったから、支えてくれるという沙和の存在が随分と救いにもなっていた。
その後、相原は野球部の用事にかこつけて、沙和と一緒にいる時間を増やしていった。
それはスコアブックのチェックだったり、練習メニューの確認だったり、彼女のしていることを使えば、いくらでも口実はできた。
練習後、少しだけ二人で残って色々な話をする。その時間が相原にとっては、いつよりも充実した時間となっていた。
そして沙和も同じ想いを抱いていると、相原は感じていた。
彼女が自分に向ける眼差しには、優しさ以上のものが含まれている気がした。他の部員に寄せるものとは違う種類のものに見えた。
今はお互い部活に集中して、引退したら告白して付き合おうと思っていた。
けれど結果はそうならなかった。
沙和と友人の話にショックを受けていた相原にとって、ひょいと懐に入り込むように告白してきた女子は傷を癒すのにちょうどよかった。彼女はおしゃべりで、聡明さはまるでなかったけれど、顔と体は美人だった。
(これでいい。これでいいんだ……)
自分に言い聞かせながら過ごしていたある日、相原は沙和に「彼女できたって本当?」と聞かれた。それを聞く時から顔がなんだかおかしかった。目も合わせずに、とても言いにくそうだった。
「ああ」
一言で答えると、沙和はばっと勢いよく顔をあげた。傷ついたと伝わる表情に、相原は衝撃を受ける。けれどそれを問いただす間もなく、沙和はひきつった笑顔をのせて「そっか……よかったね、おめでとう」と言うなり走り去ってしまったのだ。
相原はそんな沙和の意外な反応に驚いた。
(もしかして、望月は俺をやっぱり好きだったんじゃないだろうか……)
そしてその予想が当たっていたことを、相原は数年後に知ることとなる。
……今でも考える時がある。
あの時、沙和と友人の言葉など聞かなければ違ったのに、と。水飲み場など通らなければ良かった。気づかないままでいられたら、きっと相原は高校の時に沙和を手に入れることができた。
相原と沙和のタイミングはことごとく合わなくて、同窓会で再会したとき、必ずどちらかに別に恋人がいた。
だから、今年お互いフリーだったときはチャンスかもしれないと思ったのだ。様子を伺うように時間を重ねて、沙和の態度から高校時代と同じものを感じていた。だからきっとうまくいくと、もう沙和の気持ちを見誤らないと思っていたのに。
あの怒りにまかせて沙和を抱いた夜から、全ては狂っていったのかもしれない。
(あの夜、抱かなければよかったのか……?)
けれどあの時の相原は沙和の想いを確信していたし、壮太という男の存在に怒りを沸騰させてしまっていた。感情がたかぶって理性がはじけとび、行動を抑えきれなくなっていた。だから、もしも同じ時に戻れたとしても同じ行動をしてしまうだろう。
彼女の求めるように画像を消せば『普通の愛し方』ができるのだろうか。
(けれど、もしも画像を消して、望月が戻ってこなかったら……?)
彼女がそばにいることの幸せを相原は知ってしまった。
たとえ心の全てが相原にはなくても、沙和が一緒にいるだけで相原は癒されたし、毎日の活力になっていた。
たわいもない話ができること、抱きしめること、肌を重ねること。
その全てが相原がずっと求めていたものであり、それが自分にもたらす多幸感に目がくらむほどだった。
(……失うくらいなら、心を得るのは諦めてでも縛り付けた方がいい)
そう思う一方で、沙和の心を渇望している自分もいる。
自分が沙和を愛しく想うように、彼女から愛されたい。そして求められたい。
(どうすればいい……)
相原はベッドに一人大の字になって、薄暗い天井をぼんやりと見つめていた。
枕カバーから、沙和の香りがする。それに包まれていると、まるで彼女が一緒に眠っているかのような錯覚に陥った。
気づくと、相原の目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。
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