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◆
Tシャツとハーフパンツといういつもの部屋着でリビングに戻ると、相原はまだ帰ってきていなかった。
「ほんとにどこ行ったんだろ……」
見ると、チェストの上でスマホを充電したままだ。そう遠くへ行っていないと思うのだが、どうしたのだろう。
(今……ロック解除にチャレンジする時間あるかな……)
一瞬よぎった考えに沙和は揺れる。
チャンスではあるけれど、いつ戻るかわからないと思うとハイリスク過ぎる。
しばらく迷いはしたが、結局沙和はそれを諦めて、コーヒーをいれることにした。二杯分の粉をいれてセットする。しばらくすると芳醇な香りがあたりに漂った。
「あー……いい香り……」
ちょうどコーヒーが落ちきったくらいに、玄関の開く音がして相原が戻ってきた。手には駅ビルに店を構えるベーカリーの袋がある。
「起きたのか」
相原はどうやら雨の中で食事を買ってきてくれたようだ。中身はベーグルとサンドイッチ、そしてチョコレートのスコーン。どれも美味しそうで、沙和の胃袋がきゅうっと唸る。
(いれたてのコーヒーと美味しいパン。すごく贅沢な朝食だ……)
ソファに座って何気なくベーグルを食べ始めようとして、沙和は「ああっ」と声をあげた。急いで立ち上がって座面を確認する。すっかり忘れていたが、このソファには昨日の残滓がこびりついているはずだった。
相原は沙和の驚きに最初は目を丸くしたが、すぐに何を考えているのかに気づいたようで「俺がふいておいたよ」と落ち着いている。
「残念ながら綺麗になった」
「いや、そこ残念に思うところじゃないよね……。でもありがとう」
確かに見た目からは汚れのあとは何もない。ほっとした心地で、再びベーグルを口に運ぶ。サーモンとクリームチーズが挟んである黄金の組み合わせのベーグルは、とても美味しい。
「美味しい……」
「それは何より」
相原は穏やかに微笑むとサンドイッチにかぶりついた。彼もお腹はすいているようで、勢いよく食べすすめている。口の端にマヨネーズがついていて、なんだか微笑ましかった。
(こうして落ち着いてると、昨日とは別人みたいだな……)
相原にはいくつもの顔がある。
ずっと沙和が見てきた相原は、いつだって冷静で穏やかな男だった。何を考えているのかわからないところはあったけれど、基本的には合理的で常識的なイメージがある。
けれどあの夜に知った相原は、感情的で短絡的で、これまでのイメージを覆すほどの激情家だった。
どちらが本物かなんて問いは馬鹿馬鹿しい。
どちらも本物の相原だ。
その振れ幅の大きさに比例するように、沙和の戸惑いも深い。
「望月の今日の予定は?」
サンドイッチを食べ終えた相原が沙和にたずねた。今日は、というか今日も予定はない。沙和は基本的に週末に予定をいれないし、今の状況下ではいれたい予定もなかった。
「何もないから家にいるつもり。相原は?」
「ちょっとスーツをクリーニングに出してくる。ついでに買い物もする予定だが、何か必要なものはあるか?」
バスローブがほしいと言いかけて、沙和は口をつぐんだ。
こんなのを欲しがったら、この生活に満足していると思われてしまう。
(違う。そんなんじゃない……)
あまり自分のものを増やすと、どんどん巻き込まれてしまう。相原の想いの渦にさらわれてはまってしまったら、きっと抜け出せなくなる。
まだ沙和は逃げ道を探していたかった。
「そうだなぁ……。強いていうなら一口チョコ」
「チョコ?」
「うん。ちょっとした時につまめたら良いかなって」
「わかった。見てくるよ」
「あ! 高級なのじゃなくていいからね! 安いやつでお願いします!」
沙和の言葉に相原は「心得た」とうなずく。どうも相原の金銭感覚はずれていて、スーパーといったら駅ビル内の食品売り場をさすようだった。確かにそこもスーパーと言えるけれど、マンションのそばにあるスーパーのほうが遥かに安い。
近所のスーパーで買ってきてねと念をおしつつ、厚かまし過ぎるだろと内心自分に突っ込んでしまう。
相原をパシリに使う自分が信じられない。
なのに、相原は沙和がそういう頼みごとをしても、まるで嫌な顔をしないのだ。
(相原の許容範囲が難し過ぎる……)
沙和には難問すぎて、解決の糸口がつかめない。
「本当に望月はチョコレートが好きだな。高校の頃も部活中に食べてたのを思い出す」
「あー、そうだったね」
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