その名は”Ⅾ”

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 踏切の遮断機が降りてくるような。サイレンを鳴らす車が近づいてくるような。  胸をざわつかせる警告音を聞いて、希純は我に返ったらしい。一瞬にして恍惚の表情が剥落すると、片手をあげてセーフワードと謝罪の言葉を口にした。 「いいですよ、出て下さい」  普段から希純はスマホ二台を持ち歩いている。プレイ中はサイレントにしているが、休日でも鳴るのは職場支給のものだ。これが鳴る時は、実際に緊急事態だと知っているから、光紀が制止することはない。  およそ他人には見せられない格好のまま、職場からの電話に出る姿はどこか滑稽だった。 「はい、ええ。それで、その人はどこへ? え? ああ、いや、なんでもない。わかった。いまから、そっちに行くから。いや、三十分くらい待ってて、そのままで」  光紀に裸の背を向けて、部下らしい電話の相手に手短に指示を出す希純の姿は頼もしい。ほんの数刻前まで、Subであり、ペットである自分のありのままをさらけ出していた人間と同一人物には見えない。 「また、呼び出しですか?」 「ごめん。本当に悪いけど、いますぐ出ないと」  部下と責任が増えて、夜間や休日に呼びつけられることが増えた。これではとても、休んだことにはならないだろう。労働環境はどうなのかと光紀は首を傾げたくなるが、希純は一貫して仕事には口出しを許さない。 「出かける前に、返事だけ聞かせて下さい。この部屋に引っ越しますか、やめておきますか?」 「……引っ越す。日付は空いてる日のどこかで」 「わかりました。小此木さんには、そう伝えておきます。家電とか家具でダブるものはどうしますか? 倉庫借りてキープするか、希純さんの実家に送るか、でなければリサイクルショップとかで処分するか」 「そのへんは、おまえに任せていいかな。わりと古いのが多いから、売っても値段つかないかも」  スーパーヒーローの大変身もかくやというスピードで身仕度を終えた希純は、手櫛で髪を整えながら答えた。切り替えの速さと、公私の落差の大きさがあまりにも男前過ぎて、光紀はたまについていけない気がしてくる。Switchとはいえ、この人が自分のSubである事実のほうが、夢なんじゃないかと思えてくる。 「わかりました。じゃあ、僕が手配します。気をつけていってらっしゃい」 「光紀、本当にごめん。終わったら連絡するから」  適当に髪を撫でつけた希純が申し訳なさそうに、うしろ頭を掻く。 「じゃあ、最後に一つだけ、僕のワガママを聞いて下さい。Kiss(キスして)」  Glare混じりに告げれば、よそ行きの顔を少し崩した希純が近づいてきて、下から掬うように唇を重ねた。 「いつも、ありがと」  わずかなぬくもりの余韻すら残らずに、シャツのボタンを一番まで留めた希純は地下室から出ていった。 「まったく、もう」  キス一つで篭絡される光紀が、Domとして甘すぎるのかもしれない。けれど、仕事に打ち込む希純を止める手段がない。  口惜しい気持ちと、心配な気持ち、それと我が身の不甲斐なさからくる焦燥感。  希純は光紀のSubで、かげかえのないパートナーで、互いのすべてを見せ合える相手だけれど、物理的な一つ身ではありえない。  好きで好きで、好きだからこそ切なくなる。  光紀は唇を噛みしめつつ、スマホを取り出して小此木への返信を打ちこんでいた。
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