ノーマル・パラドクス

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ノーマル・パラドクス

 その日も、朝から窓口は混んでいた。  知る人ぞ知る専門機関だったはずが、なぜかその名を知られるようになってしまったせいで、希純の職場である包括支援センターは若い相談者たちで賑わっていた。 「だからー、DomとSubのための相談窓口なわけでしょ? オレらを助けるために、住むところを斡旋してくれるって話じゃないわけ?」  一番端のカウンターで声を荒げているのは、大柄な若い男と明るい茶髪にタンクトップの若い女性。DomとSubのカップルを装っているが、ここ最近増加している『にわか』であるのは、希純の目には明らかだった。 「ですから、先ほどもご説明申し上げたように、補助の対象となっているのは、パートナーのいないSubの皆さんなんです。定期的な就労や住居の確保もままならない、そういった方のために、こちらでは生活の相談にのっているという次第でして」 「それだよ。こいつがSubなんだから、その対象じゃん」 「いえ、Subの方といっても、所定の診療機関での診断書がないと、こちらでは応対しかねますので」 「で? いつ、どこに行けば、その診断ってのを書いてもらえんの?」  キャリアの浅い相談員が対応に苦慮しているのを見かねて、希純はさりげなく口添えをすることに決めた。相談員本人のためにも、厄介な相手の対処法を学ぶことは意味があるが、いかんせん待機人数が二十を越えてしまっている。しかも、男が張り上げる大声のせいで委縮しているSubがいる以上、放置は望ましくない。 「ダイナミクス対応の診療機関は、こちらの用紙を参考にどうぞ。ここの敷地にある総合病院でも診療科はありますが、そちらは予約制になっていまして、現在は半年先まで予約が埋まっているそうです。できれば、お住まいの近くの病院でお申し込みください」  二人にパンフレットを押しつけると、早く席を譲るように促す。立ち上がった男が値踏みするように希純を睨みつけてきた。 「……っ」  視線の鋭さに、とっさにたじろいでしまう。希純は気を取り直して、頭の中のスイッチを意識した。Domのほうにスイッチを入れる。自分はSubではない。あくまでDomとして、尊大で毅然とした態度を貫かなくてならない。  男の目を正面から見つめ返す。不穏な沈黙を察して、連れである若い女性が男の肘をつついて、二人はその場を離れた。  あの男はDomだ。しかも、本人がまだ気づいていない。  彼は連れの女をSubだと言い張って、補助金の申請をしようと企んでいるようだったが、彼女のほうはノーマルに見えた。 「すみません、久能チーフ。ありがとうございます」  窓口担当の相談員が早口で礼を言った。この春に大学を出たばかりの彼女はノーマルだ。社会福祉を専攻していたといい、真面目で丁寧な口調は、コミュニケーションに不安を抱えるSubの助けになるだろうと、希純は見ていた。  すべて埋まった窓口と順番待ちしている来庁者の様子を見つつ、溜まった書類に決裁の判を押す。ペーパーレスの時代にまったく追いついていない。役所と病院、双方の橋渡しが必要なため、結局、紙の書類が減らない。  電話のコールが三回を越えている。手の空いている者がないのか、誰も出る気配はない。  希純は手を伸ばしかけたところで、異変に気づいた。
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