ノーマル・パラドクス

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 突然、目眩がした。  天井が回る。地面が揺れる。いや、揺れているのは希純であって、世界ではない。  貧血を起こした時のように、耳から音が遠ざかっていく。目を見開いているのに、なにも見えない。なんの映像も、まるで焦点を結ばない。  額に脂汗が浮かぶ。寒気がする。 「大丈夫ですか、チーフ? なんだか真っ青になってますよ?」 「え、あ、ああ。悪い」  通りかかった部下に声をかけられて、希純は顔を上げた。 「立ちくらみかも。急に暑くなったせいか、寝不足が続いてるから」  幸い、相手の顔は認識できた。希純と同じく、センター立ち上げの頃からの同僚で、一つ年下の彼は頼りになる。 「座ってて立ちくらみはヤバいっす。少し横になったほうがいい。よければ、なにか飲み物とか買ってきますよ?」 「いや、大丈夫だって。自分で行く。ごめん、ちょっと後を頼んでいいかな」 「もちろんです。あんまり調子が良くないようなら、切り上げて帰ったほうがいいですよ」  希純は礼を言って、その場を離れた。立場上、他の部下たちに心配をかけるのも、体調不良を悟られるのも得策ではない。  これまで、実質的にセンターを取り仕切ってきた九頭竜聡子が辞職するのと同時に、希純が抜擢を受けて、現場の責任者を任された。とはいっても、もちろん中間管理職であり、責任が増える一方で、労働時間に制限がかからなくなってしまった。  それぞれの担当者に任せていても、トラブルが起きれば呼び出され、出勤者の調整がつかなくなれば借り出される。望まずして、社畜ライフに突入してしまった。経営陣に言いたいことは山ほどあるが、現場の状況も放置できない。そのうえ、小此木が発端のダイナミクスブームである。 「限界かも、な」  他のスタッフと顔を合わせるのも億劫だった。自販機の前に立ち、ICカードをかざす。エナジードリンクを選びかけて思いとどまる。この種のカンフル剤は問題を先送りするだけで、なにも解決はしない。無難に清涼飲料水のボタンを押して、ベンチに腰を下ろした。  上司に使われるのはしんどいが、部下を使うのは、もっとしんどい。  それも、実力を認められてのことならまだしも、九頭竜と仲が良かったからだの、依怙贔屓人事だと陰で言われているのだから、たまらない。いや、当たらずといえども遠からずという側面があるから、希純の心労は倍増する。  Domであれば、人の上に立って、人をまとめるのも造作ないのかもしれない。  そうはいっても、希純はSwitchである。しかも、プライベートでは年下のDomとClaimを結び、Subとしての生活に浸りきっている。Subであることを厭う気持ちはないものの、業務の上ではマイナスかもしれないと思うことがある。  希純の父はSubでありながら、一筋縄ではいかない会社の経営をこなしてきた成功者だ。自分とは一体なにが違うのかと、頭を抱えたくなる。  弱気な自分から逃れるように、無意識のうちにスマホを手にすると、光紀からメッセージが届いているのに気づいた。
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