あかちゃんだった僕が泣く理由

1/1
26人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

あかちゃんだった僕が泣く理由

   この世に生まれてから、一度も泣いたことのない人間なんていないと思う。  この世に生を受け、赤子が産まれ落ちる瞬間、直ちに”おぎゃあ”と産声をあげる。だが、泣いて慶ばれるのはこの時だけで、あとはたいてい迷惑がられる。  なぜって?    親だって生まれたときから親じゃないからだ。当たり前のことだが、あんがい僕らは、自分の親はずっと親業をやってきていると勘違いしている。なんなら、親の子供時代なんか割愛されて、親は生まれときからずっと親だったくらいに思ってやしないだろうか?  でも、けっしてそうじゃない。  初潮を迎えた娘がある年齢に達すると、若者と出会って結婚する。娘は妻となった喜びを噛みしめ、恋人気分が抜けないまま甘い生活を送る。そしてある日、自分の妊娠に気づくのだ。娘だった妻は子供を産む。その瞬間、物理的にも法律的も母親となる。  だが、娘だった妻の気持ちはどうだろう? すぐに自分は母親なのだと自覚するだろうか? ふにゃふにゃの泣き叫ぶ我が子を見て途方にくれたかもしれない。見様見真似で乳をやる。人間の営みとして当たり前のことだが、初めてだったらきっとこんな具合だろうと思う。  僕の母さんは言った。『生まれたばかりの卓也くんは、ほかの赤ちゃんなんかとぜんぜん違ったの。ほげー、ほげーってね、それは、それは野太い声でね、あまりに勢いよく泣くものだから、母さん、周りの赤ちゃんを起こしちゃいけないと思って、慌ててお乳をやりにいったのよ』  最近になって僕はこんな記事を目にした。 【母親は赤ちゃんの泣き声をことさら不快に感じる】     人間が不快に感じる周波数ーー。  それは、緊急を知らせる救急車や、危険を知らせる車のクラクションの音がそれだ。赤ちゃんの発する泣き声は、その不快に感じる周波数に相当するものらしい。話すことのできない赤ちゃんは、泣くことでしか自分の状況を伝えることができない。反対に心地よい泣き声で放置されてしまっては生命に危機がおよぶ。あらん限りの泣き声は、周囲になんとかしてもらうためのシグナルだ。  したがって、赤ちゃんの生命の源である母乳を、唯一作り出すことのできる母親は、不快に感じる泣き声をなんとかしようと思いつく限りの行動を起こす。  ぱっと思いつく限り”空腹=泣いて知らせる”を連想するが、果たして空腹だけが赤ちゃんの泣く理由だろうか? もっとほかにも細かな事情があるはず。気になった僕は、赤ちゃんになりきって、手っ取り早く赤ちゃんが泣く理由を確かめてみることにした。  近所のドラッグストアに行って、おとな用の紙オムツと粉ミルクを買い求めた。パジャマの下にオムツを穿き、サイドテーブルの上に哺乳瓶を置くと、ベッドに横になってみた。しばらくすると様々なことが判ってきた。    オムツがむれて気持ちが悪い(ほげー)  背中がかゆいよ(ほげー)  寝返りも打てないし、温度調節もできないから身体はだんだんと熱くなる。汗ばみ不快指数マックスだ。おまけに、クラクションやら井戸端会議の甲高い笑い声。住宅街の喧騒が気になって眠れない。  やってられるか!(ほげーほげーほげー)   『あら卓也くん、さっきミルクもオムツも取り替えたのになぜ泣いているのかしらね?』 (だってかあさん、ぼく、なんだかむしゃくしゃするんだ)  元気な赤ちゃんの泣く理由はだいたいこんなところだろう。因みに、いくら実験とはいえ、さすがに健康体の僕がオムツの中で用を足すことはできなかった。  ここからは余談になる。毎年お正月に行われる大学生による箱根駅伝競争。中継車に乗るクルーはアナウンサーを含めて全員オムツを穿いて放送に当たるのだそうだ。日本橋からゴールのある箱根まで、およそ10.7㎞の道のり。生放送中に業務を中断してトイレにいけないのがその理由だ。いつなんどき選手に動きがあるか判らないライブ中に、確かにトイレ休憩はとれない。だから不測の事態に備えるのだという。  仕事中にオムツに用を足せる彼らのプロ意識に、僕は改めて敬意を表したいと思う。  閑話休題。僕の人生において赤ん坊時代ほど泣いたことはない。(まぁだいたいの人間がそうだと思うが)  夜泣きもまたしかり。夜中に大声出せるのも赤ちゃんの特権ともいえよう。 朝は目を覚まし、授乳後の昼間はすやすや。寝て起きて繰り返す。真夜中になると泣き出す昼夜逆転。僕の声は野太く近所じゅうに響き渡るものだから、母さんは夜な夜な乳母車を押して散歩に出かけたそうだ。  そういえば、うちのばあさんはくしゃみをすると、尿をちびりと漏らすらしい。だから失禁パンツが手放せないという。おばあさんは深夜三時ごろになると、ごそごそと動き出し、夜明けと同時に庭いじり。ひと仕事終えて、朝食後に寝るのだ。昼に起きてきて、昼食後にまた昼寝。そして夕方から再び庭いじり。夕食後の八時過ぎには早々に寝てしまう。そう考えてみると、お年寄りも、赤ちゃんもあまり変わらない気がする。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!