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ここマレートにおいて、今もっとも熱い話題といえば「怪盗ノクス」だろう。
いつからか囁かれるようになったそれは、領民にとっては胸がすくような存在だ。横柄な態度で威張っている貴人たちの不正を暴き、虐げられていた者たちを解放する。あるいは、裏取引の証拠を見つけ出して地位を失墜させる。
それだけではなく、貧しい者たちから取り上げた大切な物を取り返してくれたりと庶民の味方ともいえる行いも多く、だからこそ領民らは怪盗の味方だった。
町を守護する警備隊の大半は平民で、そんな彼らにとって怪盗の存在はひそかに歓迎すべきものだったが、表立ってそれを言うわけにもいかない。警備隊の仕事は領主の直下にある。領民にとってもっともいけ好かない存在が領主ではあったが、国から定められた主はそう易々とは変えられない。
悪い噂には事を欠かない領主プラエド・アルパガスは、今日も横柄に命令を下し、警備隊はあてもなく町へ散った。
隊員たちの不満の囁きを背中越しに聞きながら、アレスタシオンは夜の町を歩いていた。
雲が流れ、ときおり月を隠す。街灯のあかりがぼんやりと照らす石畳は、昼間降った雨の名残を残している。あちこちにある水たまりが光を反射して白く輝き、町は平素よりも明るく見えた。
「隊長、そろそろ帰りましょうよ」
「たぶん今日は出ないっすよ」
「その理由は? 根拠を示せ」
気だるげな部下の声に小隊長であるアレスタシオンが問うと、「勘です」と声があがる。
立ち止まり、うしろを振り返ると柳眉を寄せて一言で返した。
「却下だ」
「そんな殺生な」
「オレ、今日は非番だったのに……」
「隊長だって、今日は夜勤じゃなかったはずですよね。予定が狂って疲れてません?」
「昨日だって机にかじりついて書類仕事してましたよね。今日はもう帰ってゆっくり休みましょうよ」
ずらりと並んだ四人の部下が口々に告げてくる。
彼らが言うように、たしかに今日アレスタシオンが率いる第五小隊は、夜番の日ではなかった。それが変更になったのは、領主の一声だ。彼が命ずれば、それが絶対となる。
領主付きの第一小隊は貴族階級で占められているが、それ以外の小隊はほぼ平民で形成されており、領主が代替わりしてから扱いが悪くなった。
各小隊を束ねる長には貴族が配されており、アレスタシオンもその一人。二十五歳にして十名の部下を持つのは、なにも珍しいことではない。王都ならばともかく、地方領の小隊長など吹けば飛ぶような地位の低さである。
無理を強いていることはわかっているアレスタシオンが渋面を作ったとき、遠くから警笛の音が響いた。
応援を呼ぶための笛にはいくつか鳴らし方があり、今のそれは――
「ノクスだ……」
隊員の一人が呆然と呟いたとき、地面に影が差した。
月明りを遮ったのは雲ではなく人影。
貴族街と商業街を隔てる高い壁の上に、誰かが立っている。
闇にまぎれ目立たない黒い服、頭部を覆う頭巾は顔を隠して、面立ちは知れない。
それは仰ぎ見るこちらを一瞥すると、興味を失ったように身を翻して細い壁の上を走り始めた。遠くから響く高い笛の音とともに、バタバタと足音も近づいてくる。
反対側を巡回していた第二小隊の連中だろう。このまま棒立ちになっていたら、賊を見逃したと叱責されかねない。
「追うぞ」
それだけを告げ、アレスタシオンは細い影を追いかけることにした。
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