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高い壁の上にも関わらず、その人物の足取りは軽やかだ。地面の上を駆ける己と遜色ない速さで先へ進み続けるバランス感覚は、驚愕に値する。
夜と呼ばれるとおり、あの怪盗は夜に生きる者なのだ。
顔も声も知れない。いつも高みからこちらを見下ろして、何も告げず去っていく。判明しているのは身体つきが小さいことだけだが、それだけで正体が知れるなら苦労もない。
右上を睨みながら駆けるアレスタシオンの眼前に、やがて小さな門が現れた。貴族街との境界である。
門を守る衛兵もまた、外壁の上にいる人影には気づいているのだろう。指を差し、けれど対処のしようもなく狼狽えているところに辿り着き、アレスタシオンは左腕に嵌めている腕輪を掲げた。
「通せ」
貴族であることの証明。腕輪に刻まれたフランゼル家の紋章を証として示し、衛兵の傍を走り抜けた。平民である部下たちは手続きを踏まなければならず、待っている時間が惜しい。
貴人らが住む区画へ向かわせるわけにはいかない。
なんとか足止めをと考えたアレスタシオンは立ち止まり、懐から小さなナイフを取り出すと、狙いを定めて相手へ放った。
月光にきらめくナイフはまっすぐに進み、けれど相手に突き刺さることもなく身体をかすめただけだった。
しかしそれは頭部を覆った頭巾を切り裂いたのか、布がほどける。
はらりと夜空に広がったのは、隠れていた長い髪。
それはまるで炎のように揺らめいて見えた。
勢いが削がれたか、足を踏み外したノクスの身体が落下する。木がクッションになったのか地へ叩きつけられることはなく、アレスタシオンが追いついたときにはすでに立ち上がり、態勢を整えていた。
近づくにつれ見えてくる相手の立ち姿に目を見張る。
見上げていときには気づかなかったが、その背は思っていたよりも低く、身体つきも細かった。
布の一部から露出した長髪が片側だけ垂れ下がり、肩から胸元へ落ちている。月光に映える白い肌に、黄金色に輝く瞳。アレスタシオンの胸元ほどしかない背丈。
「――女……?」
まさか、と驚きに漏れた声に対し、ノクスは笑う。
「さて、どうかな」
声音は低く、けれど男性ほど太くもない。
女か、あるいは少年か。
見定めようと目をすがめるアレスタシオンに対して、ノクスは鼻を鳴らした。
「性別というのであれば、小隊長殿のほうがよほど知れない。女と見まがうほどの美貌に銀色の美しい長髪。さながら月の女神のようだ」
「…………」
「おや、怒ったのかい? 美人が台無しだよお嬢さん」
相手の傍へ寄ろうとしたアレスタシオンだったが、足を踏み出す前に膝から崩れ落ちた。
うまく力が入らず足が立たない。全力疾走した程度で疲れるほど軟弱な身体ではないはずだが、ついには両膝をつき視界がぶれはじめる。まるで馬車酔いでもしたかのような酩酊感。これは――
「……なに、を――」
「不用意に風下に立ったのはそちらだろう?」
くすりと笑う声とともに、芳香が強くなった。ますます頭が重くなり、地面に手をついて身体をなんとか支える。
顔をあげることすら困難になり、ただ地面を見据えるアレスタシオンの視界に、ノクスのものらしい靴の爪先が映った。
「麗しき月の女神たる貴殿に贈り物を」
言葉とともに落とされたのは皮袋。それがなんなのかはわからないまま手に掴み取り、アレスタシオンの意識はそこで途切れた。
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