願い2

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願い2

 葉月はイライラして玄関の鍵を開け、勢いよくドアを引くとゴールデンレトリバーのカイに出迎えられた。 「ただいまカイ。散歩は後でな」 「ワンッ」  カイは昨年の葉月の誕生日の少し前に八城家にやってきたオス犬だ。誕生日に、と言うが葉月がねだった訳ではない。犬好きの両親が葉月にお兄ちゃん気分を味わってほしいとか、母が介護の仕事を始めたので家を空けるのを気にしてとか、もっともらしい理由で誕生日にかこつけて飼い始めたのだ。  初めは確かに小さかったカイも瞬く間に大きく育ち、今ではもう弟分というには存在感があり過ぎる。だいたいペットの世話でお兄ちゃん気分をと言うならもっと幼い頃だろう。  実際八城家は両親が結婚してこの家を買った時に柴犬のクウを飼っていた。同じ頃、隣に越してきた仲村家に生まれた渉や、その後誕生した葉月の良き遊び相手になってくれたが、葉月が小学校に上がる前に亡くなってしまった。  当時、葉月があまりに悲しむので両親が新しく犬を飼おうと言ったこともあったが納得しなかった。 『クウがいい、クウじゃなきゃいやだー』  小さな葉月には何でも出来るように見えた渉にも「クウを生き返らせて」と無理を言って困らせた。あれから随分経ち、あえて違う犬種でと両親が知り合いのブリーダーから譲ってもらったのだ。 (時々ヤンチャで困らせてくるところは弟分っぽいけど、人懐っこ過ぎて番犬にはなってないよな)  葉月は母のメモを見て、冷蔵庫から手作りの冷し中華を取り出した。リビングに持って行って食べようとテレビをつけたのはいいが、うっかりドラマの再放送を最後まで見てしまった。明日のテストを思い出し、慌てて二階の自分の部屋に上がる。エアコンをつけ机の上に鞄を置くと、先刻の渉の言葉が思い出された。 『……弟みたいなもんかな』 『こいつまだ子供だぞ』  はぁ、と溜息をついて隣の家の窓を見る。向かい合ったそれは渉の部屋だ。葉月が小さい頃は互いの家を行き来するだけでなく、部屋越しに糸電話を渡して話をしたり、紙飛行機を投げ合って遊んだりした。今思えば六つも年下の葉月に渉はよくつき合ってくれたものだ。渉は葉月を弟のように可愛がってくれたし、葉月もまた渉を兄と慕っていた。 (それはそうなんだけど……)  渉の父親は商社に勤めていて、昨年東京の本社に転勤が決まり夫婦二人でマンション暮らしだ。地元の大学に進学を決めていた渉は一人こちらに残った。暫くは葉月の母が甲斐甲斐しく世話を焼いていたのだが、以前から積極的に家事を手伝っていた渉にその必要もなく、大学生に干渉するのもよくないだろうと今は控えている。  片や中学生の葉月は、同級生が部活に励んでいるのを尻目に帰宅部を決め込んで好きなゲーム三昧の毎日だ。  元基や他の友人とはお互いの家でオンラインゲームをするが、渉とは葉月の家でやることが多い。一緒にいて勝った負けたと大騒ぎをするのが楽しいのだが、長時間になるとさすがに母に叱られる。 「だからいつまでも子供だって言われるのかな……」  葉月は汗をかいた制服から着替えもせず、ぼんやりと窓際に立っていた。  向かいの部屋では渉が裸でベッドに横になっている。高山は下着だけ履いて、窓際にある勉強机の椅子に座り、背もたれをギシギシ鳴らしながらペットボトルの水を飲んでいた。大学で知り合った二人が体の関係を持つようになって一年が経つ。 「なー、隣の葉月くん?まだ小さいけど男前だな。渉ばっか見て俺のことなんて眼中にない感じ。でも、会った瞬間はすっげー睨んできてたけど」  高山は初めて会ったのに敵意むき出しの葉月を思い出していた。 「何だよそれ……」 「渉だって俺と会わせないようにしてたんじゃないの?隣に仲良しの中学生がいるとか初耳なんだけど」 「別に、わざわざ言うことじゃないだろ」 「冷たいなあ、せっかく知り合いになったんだから今度は三人で遊ぼうよ」  高山が前のめりに話しかけてくるのを渉は怪訝な顔で見返す。 「お前の遊ぶってどういう意味だよ」 「だからー、三人で気持ちいいことして遊ぶの。あ、別にお前に飽きたわけじゃないよ。体の相性はバッチリ」  力強く親指を立てる。 「中学生だぞあいつ」  吐くように渉は言う。それに本当は高山の言うように二人を会わせないようにしていたのだ。今まで何とか回避出来ていたのに今日は運悪く鉢合わせをしてしまった。 (葉月を巻きこんではいけない。自分が男同士でこんな事をする人間だと知られたらきっと軽蔑される。もうあの濁りのない瞳で真っすぐに俺を見てはくれないだろう。兄と慕ってはくれないだろう)  シャワーを浴びに行こうとした渉を止めようと立ち上がった高山は、少し開いたカーテンから向かいの窓越しにこちらを見ている葉月に気づいた。 「もう一回しよ、渉」  高山は渉の腕を引き寄せ顔を向かせる。 「葉月に手を出したら承知しないからな!あいつ本当にまだ子ど……」  言い終わらない間に、高山は渉にキスをしてそのままベッドに倒れ込んだ。  窓から渉の部屋を見ていた葉月はあまりの驚きで頭が真っ白になった。 (渉兄……!)  葉月は窓に背を向け、後ろ手でカーテンを閉めて目を瞑る。両方の部屋の窓は閉まっていて、エアコンの室外機の音で聞こえるはずもないのに、二人の息遣いが聞こえた気がして両手で耳を塞ぎその場にうずくまった。  葉月は一年前、たまたま両方の部屋の窓が開いていて、渉が高山に抱かれる声を聞いたことがある。あの渉が、しかも相手が男だという驚きと、頭の中が沸騰するような怒りが沸いた。  詳しい知識はなかったが、男同士でも「出来る」ことは何となく知っていた。嫌悪感よりも、渉の相手が自分ではないということが悔しくて、──そして自分も渉と繋がりたいと強く思った。 (あいつが来てるのに部屋見るとか、どうかしてた)  高山の声と名前はその時から知っていたが、顔を見たのは今日が初めてだ。別れ際に目の前で振った大きな手で、今も渉を抱いているのだろうか……。葉月はベッドに飛び込むようにしてうつ伏せになり、ちぎれる程の力で枕を握った。 (俺の渉兄なのに……!俺の!俺のっ!)  自分にそんな権利はないと知りつつ悔しくて気が狂いそうになる。明日の試験科目の勉強をしなくてはならないのに、胸にどす黒く硬いしこりがあるようで苦しくて何も手につかない。これ以上考えたくない葉月はぎゅっと目を閉じた。
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