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願い3
喉が渇いて目が覚めた葉月は、ベッド脇の目覚まし時計を手に取った。珍しく昨夜遅くまでテスト勉強をしていたせいで、一時間程そのまま眠ってしまったようだ。
台所に行って冷たい麦茶を飲もうとドアを開けると、部屋の外にカイが座っている。構ってもらいたいのはわかっているが、今はそんな気分ではない。
「後でな」
カイの頭を撫でて階下へ行こうとして、さっきも同じことを言って待たせていたのを思い出した。散歩はたいてい早朝に父が、夕方には葉月が連れて行くのだが、梅雨の今頃は短時間ですます。今日は久しぶりに晴れているし、葉月が早く帰っているものだから遊んで欲しいのだろう。
もう少し涼しくなってから行きたいところだが、クウンと鼻を鳴らして葉月を見上げる大きな弟に根負けした。
「着替えたら行くぞ、カイ」
「ワンッ」
カイの嬉しそうな返事に、犬が人の言葉がわかるとか感情を読むというのは本当かもしれないと葉月は思った。
「それなら俺のことそっとしといて欲しいんだけど。渉兄のことで結構ダメージ受けてんの、わかる?そこまで理解しろって言うのはやっぱ無理なんだよな?」
「ワン」
返事になっているのか、いないのか。葉月は制服からポロシャツとハーフパンツに着替え、散歩用のバッグを持って家を出た。
玄関の鍵を掛けていると、高山の見送りに出ていた渉が葉月に気づいて良く通る声で呼び止める。
「葉月、カイの散歩なら一緒に行く?帰ったらこの間のゲームの続きやろうよ」
それを聞いた高山が不満げに口を挟む。
「この後用事があるから俺と飯行かないって言ったくせにー」
「葉月とのゲームは大事な用事だよな。俺あの後ショートカット出来る抜け道見つけたんだ、葉月もやるだろ?」
相変わらずの子供扱いに、葉月のイライラは募っていく。
「テスト中!暇な大学生と一緒にしないで!」
それこそ子供っぽい態度だと自分でもわかっていた。だから余計に、二人のやり取りを眺めてニヤニヤと薄笑いを浮かべる高山に腹が立って抑えられなくなった。
「……いだ」
「ん、何?」
聞きとれなかった渉が小さく屈んだ姿に葉月の感情は爆発した。
「あんなことする渉兄なんて嫌いだ!」
言い捨てるようにそう叫ぶと、葉月はカイのリードを引いて走り出した。
「えっ、葉月?あんなことって…」
訳もわからず途方に暮れる渉の耳元に高山が口を近づけて囁く。
「俺達がキスしてるとこ、隣の窓から丸見えだったりして」
「えっ、お、まえ……わざと」
渉の動揺に悪びれた様子もなく高山は言ってのける。
「だって渉があの子のこと可愛がるからさー」
「高山っ……!」
「じゃあまた明日。学校でね『渉兄』」
広げた手を大きく振りながら高山はバス停に向かった。渉は葉月にどこまで見られていたのか気が気でなかった。見たのはキスだけなのか。それでも葉月に嫌われるには充分だと思われた。高山が悪戯でしてきたと言えば信じてくれるだろうか……。だが見られたのは二人が裸の時だろう、どう言い訳しても絶望的だ。渉はいたたまれない気持ちで玄関の扉を閉めた。
葉月はカイといつもの散歩コースに向かったが、チラリと家の方を振り返ったら二人の姿はもうなかった。
「ちぇっ。渉兄、俺のことなんてどうでもいいんだ」
自分から逃げ出しておいて、追い掛けてきてくれてもいいのにと勝手なことを思う。
走る葉月に喜んでついてきていたカイだが、葉月がトボトボと歩き始めたものだから仕方なくそれに合わせている。
(だからっ!こういうところがガキなんだよ)
歩くのもやめてがっくりと項垂れているとカイが急に走り出した。リードを引っ張られた葉月はさっきとは逆の体勢になり、つんのめりそうになる。
「どうしたんだ、カイ」
「ワフッ」
カイは道端でうずくまっている人の傍で止まり、葉月を振り返る。白衣のお遍路さんが苦しそうにしているのに気づき、慌てて葉月は駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
力なくゆっくりと顔を上げたお遍路さんの菅笠から覗いた顔には見覚えがある。学校の帰りに寺の近くまで案内した老人だ。
「きみは、昼間の」
「大丈夫ですか?具合悪いんですか?」
「いや……実は……」
脂汗を流して辛そうにしている老人の隣にしゃがみこんだ葉月に、彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「すまないけど、お手洗い拝借させてもらえるかな?」
「えっ?」
急病かと思い焦った葉月だったが、トイレだったことに安堵する。だが、親がいない時にお遍路さんとはいえ知らない人を家に上げていいものかと迷ってしまった。
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