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願い4
老人にトイレを貸した葉月は台所で麦茶を入れ、玄関の上がり框にお盆を置いた。
四国では人々がお遍路さんを持てなすことで自分の代わりにお参りを託したり、徳を積めるとの思いから「お接待」の文化が根付いたとされる。だが近頃は親切心につけ込む悪い人もいるので気をつけるようにと葉月も周りから言われていた。
トイレを貸して欲しいと言われ一瞬躊躇はしたものの、切羽詰まった様子の老人を見過ごすことはできなかった。
渉が知ったら「葉月のお人良し」と言うだろうか。だがそもそも葉月が道案内をするようになったのは、渉がお遍路さんを案内するのを見て、自分も困った人に親切にしたいと思ったからだ。
(大好きな渉兄に嫌いだなんて。……でも、やっぱりあんなことする渉兄は嫌いだ!)
あれこれ考えていると水を流す音が聞こえて、老人がトイレから出てきた。
「いやあ、助かりました。急に腹具合が悪くなったものの、お寺まで戻る余裕もなくて」
先程までの苦しそうな表情とは打って変わって、老人は清々しい顔をしている。
「お茶、よかったらどうぞ」
「どうもありがとう。いただきます」
老人は手を合わせて、葉月が勧めた麦茶をすする。
「これはおいしい」
葉月の母親は仕事に行くようになった今でも、煎った麦を煎じて麦茶を作っている。洗い桶に水を張り冷ましたりと、市販の水出しの物より手間が掛かるが味わいがあり、葉月はこれを飲めば毎年夏が来たと思う。
「ここの人はみんな親切だね、見知らぬ年寄りの食事や宿の心配もしてくれて。さっきも納経所にご朱印をもらいに行った帰りにお接待のうどんをごちそうになったんだ」
老人は深いしわを更に深くして笑う。
「実はお寺に行く前にうどん屋さんで食べてたんだけどね」
「ああ、だから」
『うどんは別腹』と言う地元の人なら別だが、年寄りには満腹どころか食べすぎだろう。
「ご住職にも手伝いのご婦人にも中学生の親切な子に連れてきてもらったと話したら、すぐきみのことだろうって。いつもお遍路さんを案内してるんだってね、感心な子だって褒めてたよ」
「お接待の……心ですから」
それは渉が案内のお礼を言われるといつも返していた言葉だ。言い方に力がなく、俯き気味の葉月を老人が気遣わしげに覗き込む。
「何か心配事があるのかい?昼間に会った時とは別人のようだ。私で良かったら聞かせてもらうよ」
老人に促され、葉月は渉への想いを言葉にする。
「……俺、好きな人にヤキモチ妬いて『嫌い』って言っちゃって。こんなだから子供扱いされるんですよね」
あっと思い恥ずかしくて再び下を向いていると、もう一口と麦茶をすすった老人が葉月の口まねをして身の上話を始める。
「私もきみと同じだなぁ。大好きな人に『顔も見たくない』って言っちゃって。長い間一緒にいたのに」
「それって奥さんのこと?」
「……うん、まぁ事情があって結婚はできなかったんだけど、三十年近く同居してたんだ。私が板前をしていた料亭に常連さんと来たのが出会いで、そこをやめて自分の店を出す時に手伝ってくれるようになってね。一回りも年下で美人でよく気がつく子だったよ」
それって惚気?と思いつつ葉月は聞いている。
「喧嘩っ早くて酒飲みで博打好きの私に一生懸命尽くしてくれた」
「じゃあ何でその人にそんなこと言ったの?」
「……ギャンブルで……お金を沢山借りちゃってね。籍を入れなかったのも借金を背負わせたくなかったからなんだけど……」
ばつが悪そうにぼそぼそと喋る。
「はあ……」
「借金返そうとまた良くないところから金借りてギャンブルしてたら大喧嘩になって『そんなに俺のすることが嫌なら出ていけ、お前の顔なんか見たくない』って言ってしまったんだ」
「えっ、全部自分が悪いのに?おじいさんダメダメだなー」
葉月もさすがに呆れ顔になる。
「うん。ダメダメなんだ。結局店も売って、がむしゃらに働いて借金返して。許してはもらえないだろうけどせめて謝りたいと思って去年、千鶴に会いに行った」
「千鶴さん、て言うんだ。許してくれた?」
「いや。……もう亡くなってたんだ、病気でね。別れる頃には発病してたらしいんだけど少しも気づいてやれなかった」
「あ……」
曇らせた表情の老人に、葉月はどう言葉を続けていいのかわからない。
「一緒にいた時はしょっちゅう喧嘩してた。あれこれ言うのも私のことを親身に思うからだってわかってるんだけど。ダメだね、人間て本当のこと言われるのが一番きつい」
その言葉に思い当たる葉月の胸がぎゅっとなる。
「何で素直に大切に出来なかったかなって後悔ばかりだ。せめてもう少し早く会いに行っていればね」
老人の眼に光るものが見えた気がして、葉月はハッと顔を上げる。
「それでお遍路始めたんですか?奥さんに……千鶴さんにお詫びがしたくて?もしかして生き返らせたくて?前に八十八番札所から逆に巡って死者を蘇らせるって話があったけど、ひょっとしてそれで?無理ですよ、生き返ったりしませんよ!」
目を潤ませていた老人がキョトンとした表情を浮かべ、吹き出したかと思えば身をよじって笑い出した。
「ハッハッハ、いや笑って申し訳ない。そんなこと考えてないよ。『逆打ち』って言うんだよね。普通は一番札所から巡るのを、何かの年に逆から巡ったら御利益が倍になるとか……だったかな?」
老人は自分の身を案じてくれた葉月に頭を下げる。
「店やってる時に、夫婦でお遍路をしたお客さんがいてね。最初は旦那さんに渋々ついて行った奥さんが、知らない土地で人々の優しさに触れているうちにお互いを思いやれるようになって人生観が変わったって言うんだ。それを聞いて千鶴が羨ましがってね。一緒に行きたがってたんだけど『いつかいつか』と言っているうちに別れてしまった」
葉月は「死者蘇り説」が恥ずかしくなる。老人は純粋に約束を守りたかっただけなのか。
「知り合いに聞いたら、千鶴は一人でお遍路をしたらしいんだ。四、五年前になるかな。その頃には随分体調も悪くなっていたはずだけど、何とか全部巡ったみたいだ」
「へえ!」
「八十八ヶ所全て巡り終えたら『結願』って言うんだよね。皆に親切にしてもらって『結願』出来たんだと思うよ。きみにも道を聞いたかもしれないね」
さすがに五年も前のことは覚えていない。でも、と葉月は思う。
「もし出会ってたらって思うと素敵だね」
「千鶴の願いは私の幸せだと周りに言ってたそうだ。本当は私と二人でお遍路したかったともね。その願いは現実には叶わなかったけど気持ちの中ではずっと一緒に巡っているよ」
「じゃあ願い事を叶えながら歩いてるんだ」
「そうだね。行った先々で沢山の人に出会って感謝して、これからも心の中の千鶴と生きていこうと思ってる」
「そっか……」
ややあって老人は何か思いついたように葉月の方に向き直る。
「結願した暁には、御利益の権利をきみに譲るよ」
「へっ?」
今までたくさん道案内をしてきたが、そんなことを言われたのは初めてだ。
「いやいや、お遍路でそういうの聞いたことないし。苦労してお寺巡るんだから御利益があるならおじいさんにでしょ」
「きみは本当に優しい子だね」
「いや、それにもし譲れるとしたって、俺そんなのしてもらうようなことしてないし……」
困って頭を掻いていると、老人はとんでもないと頭を振った。
「この旅であんなに苦しかったことはなかったよ。助けてもらってまさに地獄に仏。それに、きみにも叶えたい願いはあるだろ?誰かさんと仲良くなりたいとか」
確かに「願い事」と聞いて真っ先に浮かんだのは渉の顔だ。
「……早く大人になって好きな人とエッチしたい」
聞き上手の老人に思ったままを口に出してしまい、我に返った葉月は顔から火が出そうだ。
「うわっ、違います!いや、違わないけど俺……」
まさかの告白に話を振った老人も驚き、葉月以上に慌てている。
「えっ、あ、うん。若いもんね、そういうこともあるよね。いやー、ああそっか」
葉月につられて顔を赤くしながらも、老人はそれが窮地に陥った自分を救ってくれた少年の偽りのない願いなのだと知り破顔した。
「うん。もしも御利益の権利を譲れるならきみに譲るよ。叶うといいね」
「……ありがと」
老人の言葉に、葉月は素直に礼を言った。
「こちらこそ、お世話になりました」
麦茶を飲み干した老人は手を合わせ、深々とお辞儀をした。トイレに行く為に外していた色あせた鶴の刺繍の輪袈裟を首に掛け、さんや袋からお接待を受けたしるしの納札を葉月に渡す。簡単な住所の横に、源司と書かれていた。
来た道はわかると言うので玄関先で見送り、老人は昼間と同じように葉月に何度もお辞儀をして別れた。
杖をつく度に鈴の音が鳴る。出会った時より足取りが軽く思えるのは、葉月の気のせいだろうか。自分と話をしたことで気持ちが楽になったのなら嬉しい。
「それにしても、変なこと言っちゃったな」
つい口走ってしまった『願い事』を思い出して葉月は赤面する。
「ワンッ」
「そっか、散歩まだだったな」
カイの鳴き声で我に返り、散歩を再開することにした。
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