崖の下、谷の上

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 「さくら、さくら♪」  母と連れ立って歩いたことは殆どない。  「さくら、さくら♪」  その日、とても上機嫌だった母は、ずっと流行の歌を口ずさんでいた。  春の昼下がり。  平日の午後は人通りもまばらで、満開の桜に立ち止まる者もいない。  桜の木連なる川べりを、先良は母と手をつないで歩いた。  桜の花をこんなに見るのは初めてだった。  「先良! ほうら、同じ名前のお花だよー!」  母は不意に先良を抱きあげると、花へ彼を近づける。  まだ五つにも満たない彼は、知らない花を見て目を丸くする。  「きれいだねー! かわいいねー!」  「……うん」  よく分からないけれど、いいもののような気がした。  桜の間から、春の緩やかな日差しが透けていた。川の水の匂いがした。母の手の感触が、とてもやわらかで安心した。  「あっ!」  風が吹き、母のかぶっていた白い帽子が飛んだ。  ざぁ、と音がして、桜からも一斉に花びらが舞う。  先良は空を見た。空に、帽子と花が飛んで行った。  「あーあー! お気に入りだったのにー!」  母は川の方に近づいて、下を眺めている。先良も見ると、母の帽子は川の上にぷかりと浮かんでいた。  「まぁいっか。そのまま海までいっちまえー!」  がんばれよー、と母は帽子に手を振る。  「海に、行くの?」  先良は首をかしげて聞いた。  「そうだよ。この川は、海につながってるんだよ」  母は先良を抱っこするとにこにこ笑った。  「そうだなー。あれはきっと帽子じゃなくて本当はお船だったんだなー。ゆけゆけサクラ号! ゴーゴー!」  母は帽子にまたサクラと名前をつけると、くるくる、先良を抱いたまま楽しそうに回った。  くるくるくるくる。若い母子は道をゆっくりと歩いたり回ったりした。
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