"あの場所"

1/7
前へ
/79ページ
次へ

"あの場所"

私は"あの場所"という名のコスモスと名知らぬ青い花が一面に咲いている花畑へと向かっている。 花の名前はもちろん、わからない。でも美華吏なら知っているかもしれない。あの時から五年も経っているからだ。 曲がり角が多い道を下っていき、河川敷へと向かう。 美華吏に会ったらなんて謝ろう。臆病な優等生だった私を、同じ優等生として双子の兄として、私を支えてくれていた美華吏。そんな大切な人を忘れてしまっていたなんて、みっともない。穴があったら入りたい。 あの時、母を庇わければよかった。 そう思った瞬間、後悔する。 私が庇わなかったら最悪の場合、母が亡くなっていたのかもしれない。そう考えればそれをかばった私も亡くなっていたのかもしれない。だから今を生きれているのは不幸中の幸いだ。 ようやく河川敷に着いた。アスファルトから陽炎が立ち上っている。 思い出した記憶を辿れば、林の先に"あの場所"はある。そして美華吏はそこで私を待っている。 美華吏は母が作ったあの子守唄を知っている。衝撃のことだったが、双子の兄とわかった今なら知っていてもおかしくはない。 私はふと腕時計を見る。 針は午後三時を差していた。まだ夕方とは言えない時間だ。 とはいえ、タイムリミットは今もなお、刻一刻と近づいてきている。 河川敷を勢いよく走る。 一瞬足がもつれそうになった。でも今はそんなことで立ち止まってる場合じゃない。 三メートルぐらいある楓の木の林に入っていく。中は薄暗い。早く抜けないと陽が暮れてしまうだろう。 そしたら迷子になるのも当然だ。いや、もうすでに迷子になっているのかもしれない。ただ美華吏に逢いたい。約束を守れなかったことを謝りたい。そしてこんな私でも優しくしてくれたことにありがとうを言いたい。そんな気持ちで夢中に走っていたから、道も周りの景色もあまり覚えていない。 楓の木からは時々、枯れ葉がひらひらと舞い降りてくる。冬が近づいてきているという証拠だ。 私は最初、散ることのできなかった枯れ葉のように置いていかれていた。夢もなければ長所もなく、母に怒られてばかりの最悪の私だった。 そんな私が美華吏と出会い、最初は長い髪に女かと思ったり、心を見透かしてきたような言葉を言ってきたりして、不可解に感じることもあった。 それも今ならわかる。あれは記憶喪失になっていた私を助けてくれようとしていた美華吏の優しさだったんだって。 ただやらされているだけの勉強も運動もみんなの平均近くだった。そんな私に数学を教えてと頼みにきてくれた。 あの時はめんどくさいと思っていたけれど、美華吏にとっては私に記憶を思い出させるためにやってくれたことかもしれない。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加